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コミュニケーションギャップ
昨日、ある外資系SPAのショップ内をふらふらしていると、ネックレスのガラス玉(プラスティック?アクリル樹脂?)が床にはじける音がして、私の足元にもいくつかその透明な玉が転がってきた。
目に付いたものだけでも、玉を拾って、その落とし主にわたすと、こういう答えが返ってきた。
「大丈夫。お店の人にもう言ってありますから」
「?」
そうじゃなくて。お客さんがガラス玉に足をとられて転んだりしたら危ないでしょ。
拾ってあげたことに恩を着せるつもりはないけれど、何かひと言足りないんじゃない?

こういうストレスフルなコミュニケーションギャップは日常茶飯事。
特に、ライター稼業をやっていると、広報の人たちの勘違いに腹立つことは少なくない(マスコミの「勘違い」も激しいが)。
最近は、とにかく「校正はいつあがりますか?」と、原稿(もちろん広告でなくて編集原稿)を事前にチェックすることが当たり前のような態度を見せる。
取材する側にとってこのセリフは、「あなたのことは信用していませんよ」と言われるのに等しい。
いつからこうなったのだろうか。90年代末から、特に外資系ブランド企業が元気になって、ブランド管理の名のもとにマスコミとの癒着が当たり前になってから、こういう慣習ができたように思う。
10歩ゆずって、企業広報の立場もあるから、そう言わざるを得ない状況も理解できる。大切なのは、その必要性を伝える言い方、コミュニケーションのとり方だ。

取材というものは、人間同士のコミュニケーションがベースになっていると思うが、聞き手である取材者の人間性を無視したような話し方が増えていることを、最近感じる。
取材アポの段階で、「その媒体に出すメリットがないから」という断られる方がまだ分かりやすくていい(かなり呆れるが)。
まあまあ、相手がまだ若いんだから、中年ライターとしては、その変は多めに見てもいいんじゃないというかもしれない。
いや、これは年齢の問題ではない。断じてゼネレーションギャップではない。コミュニケーションギャップと、私は言いたい。
つまり人と人とのコミュニケーションに興味のない人が増えているのだ。
 2008/07/28 23:20  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)

スキャンダルの不思議
巷をにぎわせている、Y本Mの「不倫騒動」について、ひとこと言いたい。
私は芸能ネタに弱いので、こんなところでコメントするのもどうかと思うが、はっきり言って、どうして彼女が番組を降板しなきゃいけないのか、さっぱり分からない。
世の中の大半が彼女を非難する論調になっているが、それが私にはどうしても理解できない。

Y本Mといえば、頭は切れるし、きれいで魅力的。まさに天は二物を与えた、誰もがうらやむような存在。人柄はそんなに悪そうに思えないし、少なくとも、同じようなスキャンダルから見事に立ち直っているくらいだから、相当の根性の持ち主だと思う。
何がおこったのかよく分からないが、事実はどうであれ、その人がプライベートで何をしようと、仕事には関係ないじゃないの。
家族でもないのに、何で他人にその人の私生活を非難する権利があるのだろう。
しかも、どう考えても、相手の男性には甘く、女性側ばかりが非難されている。
まるで、中世の「魔女狩り」だ。

この手のスキャンダルで思い出すのは、かつてのフランス大統領ミッテランのこと(例えが違いすぎる?!)。
隠し子が発覚したことを詰め寄る記者の質問に、彼が毅然とこう答えたことは有名だ。
「Et alors? (それがどうした?)」
フランスという国を私が好きなのは、こういう大人の文化というか、個人の自由を尊重するところだ。
嘘をついて体裁を保とうとすることほど、みっともないことはない。

大体、日本という国は、男女に関することをとやかく言いすぎだ。江戸時代は非常におおらかなはずだったのに、明治以降の保守的で封建的な呪縛が続いている。
特に芸能人や有名人に対して、その人のプライベートを詮索しすぎる。マスコミのヒステリーが一般人を洗脳しているかのようだ。
特に今回は、裏側で妙な権力の力が働いているような気がしてならない。
たかがタレント一人、キャスター一人と言うなかれ。有能な一人の女性の仕事人生がこれで絶たれるかもしれないのだ。
世の中には、隠れて悪いことをしている人がたくさんいる。断罪すべき人々はもっと別のところにいるのではないか。
 2008/07/15 17:29  この記事のURL  /  コメント(1)  / トラックバック(0)

ブログ100回達成!
昨年の10月末にブログをスタートさせて、まる7ヶ月。おかげさまで、今日で100回目を迎えることができた。
他の方々とは比べものにならないと思うが、アクセス数も6月には累計10000回を超えた。感謝、感謝である。

熱心に誘ってくださった千金楽さんには、心からお礼を言いたい。
最初は、できれば本名を出して、顔写真も載せてと、何度も勧められたが、そのうちに諦めてくださったか、今では「・・さんは今のままでもいいよ」とおっしゃっていただけるようになった。
ここで白状する必要はとくにないが、実は「上野君子」という名はペンネーム。30年以上も前に亡くなった私の祖母の昔の名前である。
肩書きや名前が持つ固有のイメージに束縛されずに、自由に書きたいことを書くための手段として選んだのだが、個人的には、このブログは、私を今も守ってくれている祖母に捧げたいという思いもある。

ブログのネタを探しながら、日常の些細なことでも、いろいろなことを意識して考える習慣がついたことは本当に良かった。
そして、何よりブログのおかげと思うのは、友人たちとの絆が深まったこと。このブログを「お気に入り」に入れて、頻繁に読んでくれる友人(一度も会ったことがない人も含めて)がいる。遠く海外にいる友人とも、お互い身近に感じられるようになった。本当の自分を理解してくれるいい友人に恵まれて、私は本当に幸せだなあとつくづく思う。

その人から生み出されたものというのは、まるでリトマス試験紙。書いたものをどうとらえてくれるかによって、私自身にどれだけ興味や好意を抱いていてくれるかだけでなく、その人の本質や価値観が手に取るように分かる(えらそうで、すみません)。
服装やインテリアというのも、大切な表現の一つだから、それに近いものがある。
だから、「真面目」「語調がきつい」というような表面的な反応は、ちょっと寂しい。

ブログやSNSにありがちな、当たり障りのない口調、他人に媚びたような文体というのは、私には書けない。というより、私らしくない。私は私のスタイルで、続けよう。
直球すぎるところもあるが、これからもここでは自分の気持ちをストレートに表現していきたいと思っている。何事も絶対的自己肯定で行くのが、「ウェルエイジング」の秘訣だ。
皆さん、今後もよろしくお願いします。
 2008/06/01 14:07  この記事のURL  /  コメント(3)  / トラックバック(0)

家に他人を入れない日本人
今、話題のニュービジネス、「洗濯代行サービス」の取材で、なるほどと思うことがあった。
日本人特有のメンタリティとして、自分の家になるべく他人を入れたがらない(家の広さに関係なく)。ホームパーティをあまりやらないことを考えても明白だ。
寝室など、親しい人しか入れないパーソナルスペースがあるのではなく、日本人の場合は家全部がパーソナルスペース。これはどうやら農耕民族の特性らしい。
だから、家事のアウトソーシングの成功の秘訣は、家の中に入れることではなく、外に出すことだというのだ。

確かに、食事だって家に料理を作りに来てもらうのではなくて、食べ物のデリバリーだし、育児保育も家にベビーシッターさんに来てもらうのではなく、預けるための外の施設。ハウスクリーニングもベビーシッターも、家の鍵を預けて、自分たちは外出してしまうということをできる人はまだ少ないだろう。

欧米諸国では、これは移民救済の意味合いもあると思うが、あるレベル以上の家には、毎日ではなくても家の掃除、または料理をしてくれる人が通ってくるケースが多い。リーズナブルな価格でそういうことが可能な社会のシステムができている。
中国でも、事業家の家では使用人を置くことが普通だという。
考えてみると、余程の家でない限り、家に家族以外の人がいないのは日本だけではないだろうか。
(ちなみに戦前は違う。祖母は昔よく、田舎から出てきて住み込みで家の用事や子供の世話をして、家族のようにしていた「ねえや」の話を懐かしそうにしていた)

核家族で共稼ぎ家庭が多いのに、男性の家事・子育て参加が一般的にはまだ低いから、どうしても女性だけに負担がかかってしまう。
それでも他人に料理や家事をしてもらうことに、女性自身が罪悪感を持ってしまうのだ。男性の意識もそうだが、仕事も家も完璧にしようという女性の意識も変わらなくてはならない。日本の女性ほど家事が好きな人たちもいないだろう。知らないうちに伝統的な「良妻賢母」を植え付けられている。
ちなみに、私は妻でも母でもないが、家事は全般的に嫌いではない。

でも、これが老人介護によって徐々に変わっている。
以前は家族だけでどうにかするものであった介護だが、少しずつではあるが、コミュニティやプロの力を借りることが当たり前になってきた。そうではなくては家族がつぶれてしまう。
介護という切実なニーズによってだが、家に他人を入れるようになってきたことは、いい兆しだと思う。
 2008/05/25 21:30  この記事のURL  /  コメント(1)  / トラックバック(0)

「よりどころ」と客観性
映画『靖国』を観た。
いろいろ物議をかもしているだけに、ちょっと緊張もしたが、映画館も客席も実に静かな雰囲気だった。
映画割引の日だったこともあって、いつもより客数は多いだろうが、こぢんまりとした映画館はほぼ満席。男女の比率でいうと男性がやや多いが、男女とも年代がうまくばらけている感じで、男性は学生か50代以上(平日昼間だから中間が抜けているのは当たり前)、女性は各年代が平均的にいる。通常の映画のようなおばさまグループは見当たらず、ほとんどが一人で来ている。

さて、内容は…。ドキュメンタリー映画の王道を行っていると思った。
中国人の監督にとっては民族的に複雑な思いもあるだろうに、実に客観的に淡々と描いている。
それにしても、靖国神社を一つの基点にしながら、そこに登場する人々が多種多様であることに驚いた。イデオロギーもスタンスの置き方も実にさまざまだし、日本人だけの問題でもない。
首相や政治家が参拝することを反対とか賛成とかいう問題の奥には、実に複雑な問題がからみあっている。

はたからは奇妙で不気味に見える例も少なくないのだが、当人にとっては、それが生きていることの「よりどころ」であるのだ。それを失っては、それこそアイデンティティクライシスに陥るだろう。
戦争で親や親族を亡くしている人たちにとって、それは格別の思いであると思うし、それに対して他人が非難することはおろか、あれこれ言える筋合いのものではない。

生きるための「よりどころ」を持つことは、誰にも必要だ。
何かへの強い愛情とか信念を持つのはいいが、それがあまりに独りよがりで排他的になり、客観性を見失った時に、他者との軋轢、醜い争いを生む。
こういうことは私たちの身近にもたくさん転がっている。
 2008/05/22 10:39  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)

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