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血の経営学
加護野忠男先生の古希をお祝いする記念講演会とパーティが開催された。

 門下生のみ数十名の集まりだったので記念講演ではオフレコの議論が百出し、相変わらずの加護野節とともにお腹いっぱい堪能させていただいた。

 米寿や卒寿などが字の形に由来するのに対して、そもそも“古希”とは「古来七十これ希なりから」からきているが、今時は“近ざら”(近年七十これざらなり)というそうな。考えるためには体力が必要で脳エネルギーを高める必要があり、さすがにそれが困難になってきたとのことで、介する後進達にに委ねたいと二つの深淵なるテーマを話して下さった。ひとつは“ファミリービジネス”でもうひとつは“社員のコミットメント”であった。

 ファミリービジネスにおける揉め事が多いことは今に始まったことではないが、日経ビジネス11/14でも「創業家の作法」として、出光、トヨタ、サントリー他が特集されたように、ちょっとした旬になっている問題だ。衆議独裁などあり得るか!と功氏の下を飛び出した中内力氏。経営破綻に至ったのは銀行のせいなのか経営者の責任なのかで見解が対立する林原兄弟。これらは世間的にすでに完全ネタバレの案件であるが、その他にもオフレコ事案が多数飛び出し、大いに考えさせられる一時間であった。

 加護野先生からの問いは、「血は何故に人々を安心させたり、必死にさせるのか?」「血とは誰の血なのか、どこまでの範囲なのか?」だ。そしてタネ本はマックス・ウェーバーの「支配の社会学」。出版元の創文社が20年までに解散を表明しているとの記述に接し、あわてて支配の社会学1・2と支配の諸類型を発注。一万円超えのアカデミック単行本三冊の投資だ。

 ふたつめの社員のコミットメントは、ジェームズ・アベグレンが看破した三種の神器のうち“ライフタイム・コミットメント”に関わる議論だ。加護野先生の師である占部キ美先生が苦肉の策で終身雇用と翻訳したが、そのニュアンスはその訳では正確ではない。強いて言うならば、当事者が生涯を通じてエンゲージメントする英国流に表現するとスチュワードシップ・コードに近い概念になるが、いずれにしてもズバリの日本語は見当たらない。一所懸命をもじって造語するならば“一生捧命”とでも言おうか。

 こちらのタネ本はアルバート・ハーシュマンの「情念の政治経済学」で、ウェーバーと合わせて当分の間、学術的読書に困ることはなさそうだ。加護野先生からの問いは、客観的にコミットメントの状況を説明する議論は数多あるものの、片やコミットする社員の側の主観的意味について深く検討された議論が見当たらないと。

 主観的意味については、それこそしっかりとしたリサーチを伴わないとそれなりの知見は得られないと思われるが、行動経済学的には概ねの仮説を立てることは可能である。私なりの見解は次のようなものだ。

 ありとあらゆる可能性を検討の俎上に上げてベストofベストを追求するに越したことがないのが私たちのキャリアであることは論理的には正しいが、現実的にに全ての可能性を論うことは不可能であるとともに、たとえそれが叶ったとしても膨大な情報処理を施す知的体力的消費と、さらには正しい結論を導くとともに、アクションベースでその結論に沿った結果を引き寄せることができるかどうかとなると、そのプロセスを貫徹して結果を自分のものにすることは天文学的確率になる筈だ。

 そうすると、たまたまご縁があった現状の環境において最大限の努力(それは超長期的に身を捧げることで代替できる)を投入することが、もっとも精神エネルギー効率的にも合理性があると考えられる。つまり、あれこれホッピングするよりも石の上には一生という感覚だ。

 私ごときは、これらの問題をアカデミックに突き詰める能力も時間も持ち合わせてはいないが、門下生の誰かが栗を拾って展望を開くことを期待したい。次は喜寿のお祝いになるが、今年大寒波で飛んでしまった新年同窓会も来年は楽しみにしている。
 2016/11/21 18:25  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
七人の侍
 慶應ビジネススクールのケース教材に、家庭用VYR“VHS”の開発プロジェクトを扱った「日本ビクター株式会社」がある。これまで何度か研修で取り扱ってきたが、今回、はたと新しい視点に気がついて、受講生に伝えたことがある。

 同ケースはプロジェクトを率いる高野鎮雄のリーダーシップを背骨としつつ、彼を取り巻く6人のコアメンバーのフォロワーシップの発揮具合にまで言及しているセルフリーダーシップ論を展開するには、まさにうってつけの教材である。

 総体的にハーバードのケーススタディより議論しやすいのがKBSのケースだが、中でも平易に取り付くことができて、そのくせ幅広の深い議論が展開できる優れもののケースである。
40歳代に満たない世代は当時のVHSとベータマックスのディファクト争いをing形で知る由もないが、その後、DVDvsブルーレイ、プラズマvs液晶、そして現在でもiOSvsアンドロイドとそれらの戦いは半永久的に近似する歴史が繰り返されているので、受講生の腹落ち感は十分に大きい。

 NHKのプロジェクトXでも取り上げられてたことから、それを見たことがあるという受講生にも時々出くわす。
 http://www.dailymotion.com/video/x3lwk1y

 余談であるが、プロジェクトXが比較的チームに焦点があてられた一方、プロフェッショナル仕事の流儀は徹底的に個人にフォーカスしているように感じられる。その方がやらせの落とし穴にはまるリスクが小さいのだろうか(笑)

 さて、はたと気がついた新しい視点とは黒澤明の「七人の侍」との共通点である。米国にはそれをパクった西部劇「荒野の七人」があり、私たちは中学一年生の時に荒野の七人を地上波のロードショー番組で見て感動し、その後レンタルビデオが普及してオリジナルの黒沢作品を見て、さらにグッときた世代である。

 待てよ!志村喬とユル・ブリナーが高野鎮雄だとしたら、あとの六人の侍たちを合わせてまさに七人の侍ではないか。しかも他の六人のキャラクターが個性的に果たしている役割も映画で展開される世界とそっくりだ。何よりも重要な共通点は、世のため人のためという大義名分が全ての出発点になっていることだ。高野には家庭のリビングでいつでも映画が見られるという幸福を世にもたらしたいという強い思いがあり、その信念が終始プロジェクトとメンバーを引っ張っていった。

 それぞれの映画は、相応の報酬を支払うこともできない貧乏村を、ただただ賊の襲来から守り通すという大義がリーダーのモチベーションの源泉となっている。メンバーには、ほんとうは後ろに大金が隠れているのだろうと信じて疑わないまま戦いに倒れていく市場規範人材も交じっているが、それはエンタメ上の演出に過ぎない。ブレることなく貫かれているメッセージは、社会規範に基づいて人は動くしチームを束ねることができるということだ。

 社会規範で秩序が形成されているところに市場規範が入り込むと、社会規範はもろくも崩れ去ってしまう。昇進昇格や賞与を伴わざるをえない企業活動は、それ故にマネジメントが難しいのである。処方箋があるとしたら切り分けることだ。戦国武将のノウハウに、金銭的報償(領地と石高)は戦績に応じて提供し、位(地位)は人望に基づくべしというものがある。つまり、短期的成果は短期的金銭で精算して、将来にわたって影響を及ぼす昇級や昇格は人望に基づいて実施せよということになる。

 ここでもヒトとコトとを切り分けることが求められているのだ。かかる日本ビクターもJVCケンウッドに吸収合併されて消滅して久しい。栄枯盛衰、輪廻転生
 2016/11/17 20:16  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
システムの限界
 ロジカルシンキングほど普及はしていないが、システムシンキング(システム思考)も極めて重要なビジネススキルだ。

 システム思考においてシステムの限界として扱うものに“逆効果の応急措置”や“成長の限界”などがある。“共有地の悲劇”もその一つで、ルーツはアメリカの生物学者ギャレット・ハーディンのサイエンス誌への投稿論文(1968年)に遡る。

 これらの議論は経営学にも取り入れられ、行動経済学においても盛んに議論されてきた。政治学においては自由論の始祖ジョン・スチュワート・ミルの議論などから民主主義のシステム的限界、もっと具体的に言うと多数決の功罪が導かれる。

 99対1で一人だけが地球の方が廻っていると主張しても、答えは太陽が廻っていることになってしまう。51対49で勝敗が決すれば、49%の民意が反映される可能性は無に帰する。これが多数決ひいては民主主義の正体である。

 一億数千万の富まない白人の人々は新しいリーダーに未来を託す前に、自分の胸に手をあてて深く考え直すことができていたのだろうか。社会や政治のせいにする前に自分はどうなのかという自問自答だ。

 ひとそれぞれ持って生まれた才能や個性には差があるのは当然であるが、自分にできる範囲内で最大限のインプット(知識でも労働でも何でもよい)を行ってきたか(いるか)。MUSTを先送りにしてWANTばかりで現在を刹那的に過ごしてはいないか。次世代と自分の老後に備えて蓄えはあるか。クレジットを通じて債務超過状態にある個人の比率は世界一のお国柄である。蓄えの先送りではなく返済の先送りが積もり積もって今がある。身の丈を超えた消費と飲食を先取るから債務超過になり肥満になるのだ。

 いま米国のみならず世界のあちらこちらで進行しているのは大きな歴史的うねりだ。保護主義的思想が返り咲き右傾化しはじめた国は他にもある。民族的宗教的差別を源泉にした紛争は絶えるどころかますます激しさを増している。

 世界中の情報とコミュニケーションがネットを介して繋がってしまった現代においては、何か分け隔てて守ってくれる壁がないと落ち着かないのが私たち人間の性なのだろうか。もちろん資本主義にもシステムの限界は厳然と立ちはだかり、とりわけ株式会社という制度はシステム披露の塊であると言える。

 100年後、資本主義は健在だろうか。株式会社制度はどのような形で存続もしくは変態しているのだろうか。少なくともその三分の一近くは見届けられる可能性があるので、考えられることとできることを尽くしておきたいと思いを新たにする。
 2016/11/12 17:10  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
入口確率と出口確率
 小野薬品工業のオプジーボの適正価格を巡る議論が騒がしい。大手製薬会社の所長、チームリーダー、マネージャー、若手に至るまで、今年は問題解決ワークショップにドハマリしていることから、業界情報には敏感にならざるを得ない。

 「国の薬価制度がいまの薬にあわなくなってきている。小野がけしからん。オプジーボがけしからんではなく議論して欲しい。」とのトップの談話は全くその通りだ。新薬開発の成功率は三万分の一とも言われるとの報道であるが、何が分母で何が分子なのかが特定されなければ確率に基づく議論にならない。

 いわゆる標本空間および母集団とサンプルの定義がなされないと議論が始まらない。基礎研究も含めて全てのトランザクションが分母なのか、それともある程度のイシューに集約した上での開発テーマが分母なのかでオーダーが桁違いになってしまう。さらには何をもって成功とするのか。上市されなければ成功とは定義されていないと思われるが、どの程度の競争優位性が何年ほど継続して結果どれほどの利益がもたらされた場合を成功とするのか。

 三年で単黒、五年で回収という一般的事業会社の財務基準もあるが、メディカル業界のモノサシは全く異なると考えられる。まずもって、入口の確率を方程式化しないことには薬価基準の算定もままならない。

 患者本人が一日でも長生きして、場合によっては完治を目論むことを否定するつもりは毛頭ない。むしろ人としてごく自然な欲求であり周囲がそれを望むことも何の問題もない。ただしコストが数千万円となると異なる次元の議論が登場してくる。次世代支援、次世代に負担を残さないというパラダイムに依拠すると、それらのコストを自分の延命に投資するのか、次世代の次世代育成のために投資するのかを天秤にかけることになる。臨床事例が蓄積すれば、もともとの皮膚がんや新しい処方先としての肺がんでの生存率が高い精度の確率で表されるようになるだろう。

 現時点でもそれは可能であり、ゼロ出ない限りチャレンジするのが医師としても患者としても当たり前の有り様だと考えられる。ほぼ確実に残すことができる次世代の環境と、出口確率に基づく自己への投資と、どのようなポートフォリオを組むべきか、今後多くの人々を悩ますことになるだろう。

 迷わず全コストを次世代のために投資することがオール人類にとってはベストチョイスであるが、そのような英断ができる個人がどれほどいるだろうか。また、次世代が浪費してジエンドというシナリオも確率ゼロではないので余計に悩ましい。

 急に売れ始めるにはワケがある。閾値を超えた瞬間、需要は爆発的に拡大する。ほぼ完全自由市場のアパレルも値入(原価率)と上代設定には頭を痛めている。神の見えざる手が相手だからだ。当局の見える手による規制も同様もしくはそれ以上に難し側面を抱えている。

 計画経済は、需要を消費者の自由意思に委ねることなく統制して、それにあわせて計画的に供給していくシステムを標榜したが、歴史がそれはありえないことを証明した。バリューとマージンを後付けで最適配分する仕組みはできないものだろうか。後出しジャンケンはあり得ないのが法治国家と経済社会の基本パラダイムであるが、

 私たちは後出しを禁じている限り博打的要素は排除できないというジレンマから逃れることはできない。資本主義はギャンブルだ。私たちの行動は予想通りに不合理、そして結果はたまたまに過ぎない。

 先日、永年お世話になっている通信キャリアの公募型社内研修でたまたまの出会いがあった。独立後すぐに大変お世話になった企業にいた人材との再会であった。その会社は精算の憂き目にあって、今なお地道にビジネスを続けているとのことだが、その方は商社系通販会社に転職して、その会社が通信キャリアにM&Aされて今があって、そして劇的な再会であった。それもこれも、たまたまに過ぎない。
 2016/11/08 17:06  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
三国劇場開幕中
日米韓の三国であまりいただけない幕が進行中だ。

 本来、口角泡を飛ばす場であるべき国会が腕力上着を飛ばす場に変容する場面は今回が初めてではない。世界にプレゼンスを示すことができた重要な条約批准が先送りになるオチまでついてしまっては、幕の内弁当を取り出す気さえ萎えてしまう。

 平沼騏一郎が「欧州の天地、複雑怪奇なり!」として投げ出し型の総辞職をやっちまった時代とは、知見も世界情勢を巡る情報の質量とも桁違いに進化している筈だと信じたいが、それ以上にかつて男前であった昔の名前で出ている国々への盲目的追従をしているに過ぎないと勘ぐらざるを得ないところもある。場合によっては超巨大な既得権益がスパゲッティしていて、解きほぐす糸口も見えず、その気も端からないのだろう。

 あと数日で結果は明らかになるが、8年に一度の大劇場が今回はつまらない寸劇にっとどまってしまっている。相手をこき下ろすのはわかったから、自分は何をして何をしないのかを言ってくれないと判断のしようもないが、候補者有権者ともども感情的なジェットコースターの上下に収斂してしまうのも致し方ないと諦めるしかない。喜劇だろうが悲劇だろうが観客が足を運びたい劇場や演目を選択することができるのが一般の市場であるが、こればっかりは筋書きも俳優も選択の余地が極めて限られている閉鎖市場だ。最大の売りである自由とオープンはどこにいった?

 5年ぽっきりの一回限りの任期で再任ができないのお隣の国では、残り二年を切ったあたりからスキャンダルが噴出したり事件が起こる筋書きが定番だ。8時45分頃に葵の画面に登場するまさにアレだ。泣き屋にみられる文化の断片が統治側にも国民側にも多くのプラスマイナス両面の影響を与えているのだろうと想像される。

 さて、我が国の民間企業に目を転じて、古くは岡田氏が更迭された三越での役員会。最近では中島氏、原島氏が放逐されたTSI。大塚家具や大戸屋、少し前のすかいらーくなどの取締役会ではどのような劇が展開されたのだろうか。

 劇にもなっていない棒読みの学芸会レベルが多くの取締役会の実態である可能性が高いが、もっとも重要な観客であるお客様と自社が生かされているバックグラウンドとしての社会や環境を魅了する演目と俳優と演技の腕前は揃っているだろうか。本当は最後列でそっと立ち見をしているべき株主に最前列のゴールドシートを確保して、そこばかり意識して演技しているとしたら三文劇場で終わる。

 ロシアと中国のしたたかさと立ち回りの上手さには別格感がある。まさか、「世界情勢、複雑怪奇なり!」「顧客動向、複雑怪奇なり!」とバンザイしている政治家や経営者がいたとしたら、国民と社員がいたたまれない。情報と駆け引き、これはロシアと中国に学ばなければならない。
 2016/11/05 09:05  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
プロフィール

北村 禎宏(きたむら さだひろ)
ファッションビジネスコンサルタント
アパレル企業での実務経験とMBAの経営理論を融合させ、クライアントの問題解決やアドバイザリー機能を提供。
「アナログ」と「デジタル」、「実践」と「理論」のハイブリッド型コンサルティング活動を実践するとともに、教育・研修事業も鋭意展開中。

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