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真の格差是正
 80代後半の高齢者が小学一年生を業務上過失により加害してしまうという痛ましい事故が起こってしまったが、300件近く発生している逆走事案の7割が高齢者と聞かされると、社会システムの限界を感じざるを得ない。

 政治における一票の格差は得票数と当落が逆転することが民主主義的に望ましくない結果であると考えて、被選挙人ひとりあたりの有権者数もしくは有権者ひとりあたりの被選挙人数が問題とされる。ただし、候補者の員数や当選数、競争状況(独走or均衡)など複数の変数が絡むので、事前にどのような配分が公平なのかを一概に特定することは困難で、判例や報道に接してもよくわからないというのが私たちの実感である。

 18歳まで選挙年齢が引き下げられて、もうひとつの格差問題が浮上してくる。18歳にとって今後の社会の有り様は、今後半世紀以上にわたって自身の人生に直結する極めて長期的利害関係を有している。

 その一方で平均余命が10年に満たない高齢者にも短期間ではあるが、諸政策がどちらにどう振られるかによって有終の美を飾ることができるかどうかの大きな利害を孕んでいる。最大多数の最大幸福を追求する功利主義はマイケル・サンデルの白熱教室をきっかけに勉強された方も少なくないだろう。

 ただし、功利主義は共時的空間に限定して員数を問題にする点において限定的解釈をせざるを得ない。通時的に時間軸も配慮した幸福の総量はその視野に入っていない。とはいえ経験する自己と記憶する自己の違いは認知バイアスの大きなテーマの一つなので、どの時点で何を基準に幸福度を主観的客観的に推し測り得るのか、考え方は無数に存在する。

 一票の格差に時間軸を反映させるならば、選挙人の現在年齢に平均余命をウェイトとして掛けることが選択肢になる。対して、社会的経験値の大小でそのウェイトは相殺されるのではないか、社会的経験値の蓄積スピードは漸減するとともにある時点を頂点に衰え始めるのではないかなど議論百出となるであろうことは容易に想像できる。

 本川達雄氏の「生物学的文明論」における次世代支援論を改めて参照されたい。あわせて松谷明彦氏の「人工減少経済の新しい公式」も再度推しておく。いずれの主張も真実を衝いていると私には思えるのだが、現在の既得権益者たちにとっては不都合な議論が満載なので決してメジャーにはることはない議論である。

 その昔我が国には「隠居」や「家督を譲る」文化と慣習があった。化石燃料をガンガン燃やして本来50歳程度の寿命しかなかった人間を30年以上も長生きさせてしまう現在において、生物学的余生(余分な人生という意味)を社会的にどう扱うのかが問われている。

 隠居には他者や社会にオフィシャルには関わらないという意味があり、家督を譲るのは次世代に財産も含めて全てを託すという美しい線引きとバトンタッチであった。ずるずると中途半端な社会活動を継続して、地球資源の無駄遣いだけでなく次世代の未来に負の影響を及ぼしている場合ではない。

 55歳はマインド定年に過ぎないとして今年スルーした私であるが、数年後の隠居に向けて精神面、環境面といろんな準備が必要だと思い知らされる。

 2016/10/31 10:53  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
平時有事と組織個人
 県はいまだ判断を留保しているが、市は控訴を決定した。今後も続く法廷闘争に必要な両当事者の心的エネルギーを思うと忸怩たるものがある。本稿は当該事件そのものの論評や評価を行うものではなく、敷衍して一般論を展開することを目的としている。

 有事と平時では状況と秩序が逆転する。有事において組織的に行動することを訓練され、それを体現することができるプロフェッショナルは軍隊および警察、消防、税務などの救急や摘発を生業とする限られた職業でしかかない。彼ら彼女らにしても、最後の最後は現場における個人となる。

 その他の公務員をはじめとする大半の民間組織は平時対応を前提に、指揮命令系統を構築して組織的役割分担を決定している。平時においてもイレギュラーや突発事案が発生した場合のそれらが機能不全に陥る事例は枚挙にいとまがない。危機管理が声高に叫ばれて久しいが、不祥事における初動対応のまずさや情報開示のもたつきが止まることはない。

 本来プロ中のプロであるはずの高級将校が、戦時中はもとより、とりわけ敗戦時および反戦処理時に多くの醜態をさらした事例が少なくないことを私たちは忘れてはならない。むしろ愚将凡将が大半で、後年一流と評される将軍や将校は意外と少なかったことに驚きを隠すことができない。ただし私たち国民の名誉のためにも、現場の指揮官や下級将校や下士官(中隊長や小隊長、曹長や伍長)には多くの優れたリーダーがいたことも申し添えておく。
パラオ周りで言うと、船坂弘氏や高垣勘二氏だ。

 指揮官がその役割を全うするためには、第一に限りなく全体を網羅した詳細情報の入手、第二にそれらに基づく的確な将来予測、そして第三に効果を最大化する打ち手の立案と実際の行動の全てのハードルを越えなければならない。地位や名誉の保持や保身が微塵もかすめることがあってはならない。メンバー側にも保身や上を立てるという心理が働くので、それらのハードルには茨だらけのやっかいな代物となる。

 そもそも情報がない。仮に断片的情報が入手できたとしても将来予測のディシジョンツリーの分岐は無数にある。その上でアクションが功を奏するかはやってみなければわからない。
それでは有事を前提として特殊な訓練と手配りが施されていない組織が有事に遭遇した場合、どうすればいいのか。

 それは平時用の全てのルールと秩序を解き放って、全員を一個人に還元させることにつきる。幸い人間には自己防衛本能と火事場の馬鹿力が備わっている。システム1として悪さもする私たちの肌感と無意識ではあるが、有事においてはいかんなくその価値を発揮する可能性が高い。

 背後にある法則や規則性を体で覚えて、都度フィードバックを受けることによってのみ研鑽される第1感(マルコム・グラッドウェルによる最初の2秒)は、平時における訓練思考実験で身につけることは不可能だと自覚しなければならない。

下記記事、ご笑読あれ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/092900020/102500015/



 2016/10/29 07:40  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
けっぱれ経営者
 53歳で大きな星がその輝きを停止した。ラグビー界にとっても我が国にとってもその損失は大きい。けれども、神様は役に立つ優秀な人ほど…と言ってはならない。確率は平等に分散しており、私たちは優秀で社会的影響力のある人々の訃報に触れる機会が多いだけで、認知バイアスで言うところの「見たものが全て」という錯誤に過ぎない。

 彼は類い希なプレーヤーであっただけでなく、哲学と論理にも長けており、それを書き表す力、他人に伝達する力にも優れた不世出とまでは言わないにしても、間違いなくシックス・シグマレベルの人材であったと考えると、残念で仕方がない。その一方で、確率的にたまたま長生きを全うして、過去の実績や功績を汚しかねない政治家や財界人にも困ったものだ。

 三菱自動車を兼任することになったカルロス・ゴーンは一定の結果を出してくれる期待値が高いが、あくまでも結果はランダム・ウオークである。それでもゴーン氏には、哲学とロジックが感じられるので結果に繋がる確率は決して低くないと期待することはできる。残念ながら結果の蓋然性を全く期待することができない打ち手は世の中に溢れかえっている。

 汐留の巨大ビルディングが22時を堺に真っ暗になるが、この事例などその最たるものだ。会社としてこの問題に真摯に取り組もうとしている姿勢を示すという意味で広報的には有意な施策であるが、問題解決ロジック的にはどうなんだろうな?と疑問を持たざるを得ない。

 そもそも過労死とは、業務上の精神的肉体的過剰圧力を原因とするが、私たちが客観的に認識して認定することができる原因は時間でしかない。炎上した大学教授のようなパラダイムを平気で発言する人がいるのはそのためだ。絶対時間の長短だけは当事者を追い込んだ圧力の高低を説明することはできない。

 過労死というと業務上の不幸な出来事に収斂してしまうが、広義では「いじめ」や「DV」とかなりの共通項をもっていると私は考える。従ってビルの消灯時間を定めるのではなく、いじめ的DV的メカニズムが発現する現象の連鎖とその真の原因を究明することが本来的問題解決に繋がる。そのようなメカニズムを有する内部論理としての組織文化は相当根深いものがあると覚悟して取り組まなければならない。広報的ポーズはとりあえずはよしとして、次に本質的問題解決に切り込めることができるかどうか、経営者の手腕が問われている。

 学校の部活でいじめによる自殺が起こってしまえば、練習停止、試合出場禁止、もっとも極端な事例は廃部である。甲子園でアルファベット二文字の学園を目にすることはもうない。公共ビジネスへの参画や入札は即時停止、他社と競っている案件は全て辞退、その上で仕事を停めて社内で深くこの問題を議論する場と時間を創出するような、そんな経営者が出てきて欲しい。三枝匡の死の谷ロジックでは、全当事者が例外なく共犯者であることを認めることができたところから、ようやく企業再生の第一歩が始まる。

 高校時代、「青春の軌跡」という8o映画で文部大臣賞を受賞する機会があった。私が主将を務めるハンドボール部で起こった暴力事件で、練習停止と試合出場禁止を甘んじて受け入れるだけでなく、文系の生徒や先生方も巻き込んで、まさにそのような場と時間を経て学年の空気感が一新したことを主題にしている。主演ではないが、もちろん私も出演した。

 スクールウォーズの足元にも及ばない作品ではあるが、私たち同窓生にとっては大きな勲章である。偉大なる巨星に合掌。


 2016/10/23 11:30  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
意識と無意識
 沖縄で機動隊員による差別的発言が相次いだ。少なくとも片方は20代であると報道されたことから、「んっ!」と考えさせられるところがあった。

 長男次男は25歳と23歳になるが、彼らのボキャブラリーにそれら二つの言葉があるとは考えにくい。少なくとも家庭における彼らとの会話の中で使った記憶はない。自分で何かで読むか何かで聞くかという経験があるのかないのかまでは与り知らないが。

 私たちが子供の頃必ず読んだ「ちびくろサンボ」は、その後の一斉絶版騒動など紆余曲折を経ているので今の20代の若者が読んだ確率は限りなく小さいと考えられるし、復刊版に差別的用語が使われている可能性はゼロである。シナチク(支那竹)ですら戦後になってメンマと呼ぶようになり、支那そばは店舗名称やメニューとして現存するものの、一部のラーメンマニアの語彙で、今となっては一般的に使われる機会はほどんどない。いずれも昭和世代のレガシーボキャブラリーの筈である。

 あのような激昂した場面で思わず表出する言動はシステム1の仕業である。私たちの脳はシステム1とシステム2に分かれて仕事をする。右脳と左脳のような部位的役割分担ではないことに注意して欲しい。システム1は直感や肌感を用いて瞬時に意思決定や反応をするときに用いられる省エネ型の回路で、対してシステム2はありとあらゆる知覚とロジックを総動員して脳みそが大汗をかいて成し遂げるエネルギー消費型の仕事だ。

 前者は平均は得意だが合計は苦手などの特徴があり、後者は相当の覚悟とパワーと配慮がなければ発動することはない。覚悟とは時間と場を確保することで、パワーとはサボろうとする脳を必死で活性化させることで、配慮とは認知バイアスに抗することを指す。

 いま認知心理学がマイブームだ。先週の私塾でムロディナウの「たまたま」を扱ったことから同氏の「しらずしらず」に走り、ダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」へと。加えてチャプリス/シモンズの「錯覚の科学」、ダン・アイエリーの「予想通りに不合理」と「不合理だからうまくいく」、仕上げはダンカン・ワッツの「偶然の科学」だ。

 和書にも良書がある。下条信輔の「サブリミナルマインド」と「意識とはなんだろうか」、そして丸山圭三郎の「言葉と無意識」にたどり着けばロゴスとパトスの世界の入口だ。

 話しを元に戻そう。スピーディかつ直感的なシステム1による暴言であるが、事前にインプット、それも刷り込みに近い強烈なメモリーが形成されていなければ口を衝いて出ることはない。

 その世代の若者が果たして私的に読み聞きしたのか組織において見聞きしてきたことなのかは不明であるが、後者ではないことを期待するとともにシステム2の訓練も望むところだ。それらの相応しくないボキャブラリーが引き出しに入っているのは、現在組織や人材を指導する立場にある昭和の残骸世代の私たちに他ならない。

 同じ組織が街頭の群衆に向かって気の利いた見事な誘導スピーチを披露することもできるが、これはまさにシステム2の仕事なのだ。

 ロジカルシンキングも問題解決もシステム2の領域のアプローチである。これらが多くの企業において特別な訓練メニューになる所以は、放っておくと私たちはシステム1で業務上の判断や意思決定をしてしまう危険と常に背中合わせだからである。

 共時的にはそうではないエリアも少なくないというのが地球の現状ではあるが、経時的に人類が喰うに困らなくなったのはほんのここ数百年の出来事に過ぎない。だから生きるために、餓死しないために脳が省エネルギー型に進化し、システム1で暮らすことは生物学的には正しい生き方である。

 そこで、生物学的には正解なんだけどビジネスパーソンとしてはどうなんだろうか?と厳しく問いを立て続けながら日々の業務に勤しまなければならない。それでも十中八九は上手くいくので、懲りない人々はいつまでたっても懲りないのである。
 2016/10/20 09:13  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
ニワトリタマゴ
 「ニワトリとタマゴ」は、ビジネスの場面でもよく聞かれる定番の喩えだ。因果関係の後先を厳密に特定することはできないけれど、いずれもがいずれもの原因と結果になるような相互依存関係に陥っていることを意味する。

 はたして私たちは“共変”“相関”“因果”の違いを理解した上でどこまで正しく使い分けることができているだろうか。特にやっかいなのが相関関係で、どちらかがとぢらかの原因のごとく見えている、もしくは恣意的にそう決めつけたいような場合において、実は第三の真因が存在していて、因果関係があるかに見えていたふたつの事象がどちらも真因に基づく結果に過ぎなかったという見誤りは少なくない。米国ではジャンクフードとそれを多食する青少年の素行の因果、我が国では親の学歴と子供の学歴の関係などがよく引用される。

 百貨店の大量閉鎖時代に高級ブランドが路頭に迷うと報じられるが、どちらが因でどちらが果なのか特定することは難しい。そもそも十年以上も前に、当時大丸のトップだった奥田氏が「我が国に百貨店は100店舗も必要ない」と発言していたことを、どれだけの人々が真に受けて行動に移すことができて、どれだけの人々が真に受けることなく無為な時間を過ごしてきただろうか。百貨店はその後漸減を余儀なくされているが、SCはオーバーストアの閾値を遙かに超えていたにもかかわらず出店の勢いを止めることはなく、ここに来て大量閉鎖の運命に見舞われている

 そのような「自分は大丈夫、まだ大丈夫」という認識は認知バイアスの中でも正常性バイアス(正常化の偏見/恒常性バイアス)と呼ばれている。私たちは、基本的に変化や異常値を嫌う本能が備わっており、かつ自分が現役のときに、まさか…という感覚を普通に持っている。うちの子に限ってという決まり文句も何度耳にしたことか。

 「すでに起こった未来」はドラッカーの13本の論文のオムニバスだが、そのメッセージが示唆するところは深い。そこでは、すでに起こってしまい、もはや元に戻ることのない変化、しかも重大な影響力を持つことになる変化だと定義されている。事実としての変化もしくはその兆しは確実に惹起しているが、意図するとしないにかかわらず認識が伴っていない場合、その変化に対応することができない。認識があっても行動に移すことができなければ、これも対応できない。行動に移しても結果は神のみぞ知るということで、まこと変化に対応することはハードルの高い所作なのである。

 法学的に表現すると未必の故意に基づく共同正犯のようなものだ。このまま右肩上がりはあり得ないよね、このままだとヤバいよねと薄々感じながら、その年々の売上を盲目的に追いかけ続けたツケはあまりにも大きい。集団自殺のようなものと表現した意味はそこにある。

 処方箋はズバリ、二つの壁を越えて合従連衡すること。超えるべきひとつめの壁は会社や業界の壁で、ふたつめは売上と利益の規模を追いかける壁だ。どちらもそう簡単には超えられないのがビジネス界の実状ではあるが、そうやって言い訳している限りはすでに起こった未来に対応することはできない。
 2016/10/10 16:55  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
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プロフィール

北村 禎宏(きたむら さだひろ)
ファッションビジネスコンサルタント
アパレル企業での実務経験とMBAの経営理論を融合させ、クライアントの問題解決やアドバイザリー機能を提供。
「アナログ」と「デジタル」、「実践」と「理論」のハイブリッド型コンサルティング活動を実践するとともに、教育・研修事業も鋭意展開中。

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