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サイズ過大
ヨーロッパ諸国でEUに対する鼻息が粗っぽくなってきた。

 新極右主義の台頭という思想的背景もある程度納得できる議論であるが、心理的サイズ過大という側面も見逃してはならないというのが私の見立てだ。

 汐留シオサイトのオフィスに3年ほど通ったことがあるが、あらゆるものが私たち人間のサイズを超え過ぎていて、とても居心地が悪かった印象が残っている。新橋はベタベタのサラリーパーソンの街だが、シオサイトに向かう通路の幅、天井の高さ、周囲のビルの威容さ、とってつけた人工感、それら全てが私たち人間が息吹くための距離、温度を遥かに超えて、ここは私たちが来るところ、居るところではないと強く訴えかけてくる。同じような感覚を品川北口や新宿西口で覚えたことのある皆さんも少なくないと思う。

 私たちがオーナーシップと一体感を感じることができる国のサイズにも一定の限界があるはずだ。海洋により遮断されているという地理的条件も加わって、我が国のサイズがちょうどほどよい大きさだと思う。政治的経済的利害の対立もあろうが、単に人間がハンドリングできるサイズを超えただけだとも言える。

 そもそも、ヨーロッパ人の思想、価値感、文化的背景を私たちが理解するのは困難だ。ジャレド・ダイヤモンドが明らかにしたように、家畜として飼育可能な動物と栽培可能な植物の分布が文明化の分岐点となった。大東亜戦争終結後のビルマにおける捕虜収容所体験を語る会田雄次は、イギリス人兵士たちの立ち居振る舞いの理由と背景を理解するまでに大変な苦労をしている。彼が看破したおおきな背景は、せいぜい一二頭の家畜を家族のように扱っ
てきた経験しかない我が国民と、大量の家畜を飼育、放牧、屠殺した経験溢れるヨーロッパ人との違いだ。ここでも家畜が二つの文化を分かつ鍵となっている。

 ピスタチオの森の発見がヨーロッパの人々を移動の歴史から解放し、小麦、トウモロコシ、イネの栽培技術獲得により私たちは定住と分業を通じて社会を成立、発展させるとともに、炭水化物(糖質)依存体質という負の資産も同時に背負うことになった。どうも、飼育可能な動物と栽培可能な植物には注意を払う必要がありそうだ。動物を社員に、植物を商品やサービスに置き換えると企業活動を考えるメタファーにもなりそうだ。

 歴史的に国家の再編成を繰り返してきたヨーロッパの人々がEUをどのように捉えているかを私たちが同じ土俵に立って理解することはできないが、単に自分達が考える対象としたり制御するには大きすぎるんだろうなと考えれば、そうかもねである。

 身の丈という言葉があるが、大きすぎる家や大きすぎるクルマ、大きすぎる会社、大きすぎる地位や仕事に振り回されてはいないかと自分の周りを見渡してみる必要がありそうだ。認識対象として限度サイズを超え、制御対象として限度能力を超えていたら、私たちはその対象に主体的にコミットしているのではなく従属的に隷従させられているに過ぎなくなる。
 2014/05/29 07:47  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
対立軸
今回の研修では、「対立を避けがち」「部長の課長化」の二つのキーワードが刺さった。

 後者は三品和広教授が“経営戦略を問い直す”で強く主張されたコンセプトであり、数年間に総合商社の部長F氏ともつくづくそう感じざるを得ないという印象を共有した現象である。

 考えられる理由は二つあって、産業全体の成熟度が右側の壁に近付きつつあることから目先の細かな仕事を通じてしかパフォーマンス、すなわち新記録の更新ができにくくなったという事情が一つめ。

 第二に、その状況に輪をかけてオフィスのOA環境が進化したことから、主にPCを使った小手先の作業が、思わず手を付けやすい手近な仕事として眼前に控えるようになったこと。情報環境の進化は、上司が部下と情報格差をつけることにより業務の差別化や権威の源泉にすることを困難にしていることでさらに追い打ちをかける。

 業務の高度化も右側の壁に近付いてきたことから、研鑚を怠ってきた50代以上の世代はビジネス年齢において急速に認知症が進展する可能性すらある。実年齢では70代から80代で発生しはじめる幼児還りが、ビジネス年齢においては50代から発症し始めているのだ。

 対立概念が哲学の基本であることは以前にも書いた。対立を避けるので発想が広がらないという課題に直面したとき、その対象は対ひとと対イシューに分かれる。

 対ひとは縦の人間関係にモノ申せない状況や上位者が下位者の業務レベルに手や口を出してくることを指す。その圧力はトコロテン式に組織の最下層まで達してしまう。

 対イシューにおいては、議論や発想のフィールドが狭まるどころか、時として点の議論すなわち単なる思いつきか過去の成功体験に基づく思い込みの連打で終わりかねない。

 知と真、主と客、者と事、自と他、内と外、一般と特殊、一と多、正と誤、善と悪、地と図etc.

 当該クライアントとの7月の最終セッションが楽しみだ。
 2014/05/20 20:59  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
ということは
昨日のシナプス開通を受けて、こんな風に考えるようになった。

 勉強なるものをやり始めて凡そ半世紀弱になり、学問の世界に入って20年ほどが経過するが、学問するとはこういうことかと。

 マトリクスで二軸をとると、横軸にその対象として“同じ(既存)命題”と“違う(新しい)命題”を置くことができる。縦軸には、それをどのように説明するのかという意味で、“同じ言葉(フレームワークorアプローチ)”と“違う言葉”が対応する。

 しばしば批判的に矢面に立たされる、いわゆる象牙の塔と化した研究状況や研究者は同じ命題を同じ言葉で説明し直す(再整理する)仕事に従事しているに過ぎない。

 従来と異なる新しい命題へのチャレンジは、どのようなアプローチをとっても新しい学となるので縦軸の分解能は不要だ。皆が追いかけ続けてきた同じ(既存の)命題に対して、違う言葉で説明することが学問の背骨だと実感する。

 これは「中範囲の理論」に属する、私たちのレベルが邁進すべきほどよいターゲットだ。グランドセオリーに相当する新しい命題は何十年かに一回しか創出されない、天才的当事者に委ねられた特権である。

 私たち凡人は中範囲の理論にオーバーストレッチングしながら、日々研鑚を重ねること。これぞ学問することと見極めたり。
 2014/05/18 18:35  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
シナプスの生成
脳細胞におけるシナプスの生成が、頭の回転スピードと多様な創造性の源泉であることは広く知られている。

 本日、まさに「新しい回路が繋がり、電流が流れた!」とその過程を疑似体験する瞬間に見舞われた。

 10回シリーズのアクションラーニングの二回目で、もっとも時間を要する6時間コースの日程だったこともあり、電車ではおよそ2時間、車だとその半分で移動できる場所であることからクルマで先方に出向く腹づもりだったが、読書の時間を確保したくで電車で往復したことがその出会いを演出するに至った。

 ここ数カ月の本線は哲学の初学を走っている私であるが、往路でようやく社会契約論のホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズまで辿りついた。私の読書法は、数カ月〜1年を区切りにして本線を乗り替えながら、合間合間に脱線をするというスタイルだ。ここ数年走った本線は、自然科学では生物学、宇宙論、地球学、量子力学、統計学、数学etc.で、社会科学では幕末〜明治、日清戦争〜大東亜戦争、日本人論、西洋史、哲学etc.という系譜がある。

 脱線対象は、佐藤優だったり手嶋多一、マルコム・グラッドウェル、会田雄次、板坂元と分野というよりは作家ベースの寄り道である場合が多い。

 今回の寄り道は、坂本賢三の「分けることとわかること」で、そこでシナプスが生成された。
古今東西を問わずあらゆる分野のあらゆる真理追究の試みが一つの背骨を廻ってらせん運動をしていることに気付かされたのだ。

 客観と主観、有=無、一般と特殊、意味と記号、それらを合わせて私たちは主として対の概念を念頭におきがら世の中を見てきたという性向。実はソシュールの議論は荘子と同じフレームワークであること、古今和歌集にも哲学的普遍性が存在していること。それらは、プラトンにまで遡ることができ、社会科学的には形而上学として智慧を絞り尽くし続けたその横で、自然科学がいともシンプルに真空という無から有は生成され、粒子と反粒子の対構造のちょっとしたアンバランスが物質世界の起源であることが概ね理解されるようになり、ということが起こっているのだということを粗いけれども直感的全体的には俯瞰できたという意味で私の中に電流が流れた、すなわち新たなシナプスが生成されたのである。

 ということは、やはり自然現象も社会現象も、この世に在って私たちが認識する全ての事柄は単一のシンプルな原理に突き動かされているにも関わらず不完全かつ特殊性を有する私たちはそれを正しく認識し理解することを許されないまま現在に至っており、大統一理論は物理学上の大きなマイルストーンではあるが、さらにそれを超越する超大統一理論がこの世にはあって、私たちの思惟はそれに向かって突き動かされている、そんな精神活動の運動モ
ーメントを感じ取ることができたという意味での衝撃であった。

 その中身を理論的に思考して記述するだけの能力は毛頭持ち合わせていないが、少なくともとんでもない化け物(実はホンモノとしての本体)がそこにあるというオーラは感じ取ることができたような気がする。少しわかって、もしかしたら書けるようになるにはあと5年はかかるだろうなと思いながら晩熟型のホッブスを勉強した後なので自分に発破をかけている。

 老舗アパレルの中計プロジェクトも、本日のプロジェクトもとてもよいリズムでスタートを切ることができた。60歳還暦0歳再スタートを目指して胎動期間はあと7年ある。
 2014/05/17 20:53  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
客観と主観
新型出生前検査が新たな課題を私たちに突きつけている。

 妊娠中に事実としては発症している遺伝子異常にともなう病気がいくつかある。これまでは出産後に事後的に判明するしかなかったのが、検査技術の進化に伴い法的に中絶が可能な期限までに特定することができるようになったのだ。

 客観的事実と主観的認識は哲学におけるもっとも大きなテーマのひとつだ。私たちには客観と主観の一致を確かめる術はないというのがテーゼだ。客観は主観の外にあるから客観であり、私たちの主観は主観の外に出ることはできないことから、内なるものをもって外にあるものとの一致不一致を確認することは原理的に不可能であるという意味だが、わかるけどわからないというのが一般的印象だと思う。

 君は主観で仕事をしすぎる、と叱られまくった20代。認識は主観の中にしかなく、客観的事実を認識するのはその主観に他ならず、主観で仕事をする以外にどのような方法があるのか?と、今なら問い返すこともできようが。ただ、その指導の趣旨は先入観や固定観念を排除して仕事にとりかかれという意味であり、それはそれで今の私に大きな糧として蓄積されている。

 事実としては既に起こっているが、私たちが知らないだけという事象は日常的にあちらこちらで発生する。行方不明になった機体や、犠牲者の実態は今いずこかにおいて事実として現存するが、場を違えて情報が得られない当事者がそのことを認識することは不可能である。

 冒頭の検査が付きつけるプレッシャーは、そこにある事実を認識した後に選択肢が突きつけられて、いずれかの選択肢を選びとること自体への主観的認識と、それぞれの選択肢がもたらすであろう未だ起こっていないが起こり得る未来を主観的にどう評価すればよいのかに悩まされることにある。

 私たちの主観はほとほと左様にバリエーション豊かなものであるが故、客観的事実が真理としてそこに在るとは言い切れないという哲学的議論があることにもうなずくことができよう。

 本日ヘーゲルの入門書を読了する。まだまだ初学のレベルに過ぎず到底理解には及んでいないが、哲学面白れぇとは言うことができる。次はレビィストロースにとんで、ヴィトゲンシュタイン、スピノザ、ホッブス、フーコー、ルソー、ミル、ベンサムと脈絡はないが楽しみな旅は続く。
 2014/05/09 08:06  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
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プロフィール

北村 禎宏(きたむら さだひろ)
ファッションビジネスコンサルタント
アパレル企業での実務経験とMBAの経営理論を融合させ、クライアントの問題解決やアドバイザリー機能を提供。
「アナログ」と「デジタル」、「実践」と「理論」のハイブリッド型コンサルティング活動を実践するとともに、教育・研修事業も鋭意展開中。

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