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記号学的にひも解けば
Japabese Onlyに朝日新聞がさらなる突っ込みを入れた。飲食店などには、“外国人お断り”の掲示も少なからず見受けられるようだ。

 記号学的にひも解いてみると…。

 ソシュールによる記号表現(シニフィア)と意味(シニフィエ)に分解すると、それぞれの表現そのものがシニフィアであり、日本人しかこのエリアに入場するな、もしくは外国人はこの店に入るなという主張がシニフィエとなる。

 ソシュールによれば、この二つの結びつきは無動機だったり恣意的であるという。ある言葉が指すのは世界の中に既にある何か実物(現実)ではなく、その言葉が勝手に世界から切り取って表現したものだという意味で恣意的という。

 Japabese Onlyも外国人お断りも、掲示者にとってまさに恣意的に切り取りたい世界があったのだろう。アウェイで痛烈な洗礼を受けたサポーター、中国人団体客のマナー無視の挙動に辟易し、日本語によるコミュニケーションができない酔客とのトラブルに悩まされる店主の人々。その動機づけとなる諸事情には十分理解する余地がある。がしかし、その上で我々はどう振舞うべきか。

 まず、できれば打開したい現状はマナーとルールが守られないことに起因して、ある社会的時空の秩序が破壊されているという状況。そして、そのあるべき姿は一定のマナーとルールが維持されることで当該社会的時空の快適性が担保されていること。

 経験によれば、外国人にあるべき姿を破壊する多くの事例が見られたという認識になり易いが、外国人にも日本語や日本的マナーを身につけている人々は少なからずいる筈で、日本人にもその逆の輩が少なくないのも事実であろう。

 そもそもJapanedeや外国人の定義は、国籍なのか宗教なのか民族なのか、はたまた日本語の修辞能力を指すのか文化的深耕度合いを指すのかさっぱり不明である。四角い部屋を丸く掃くパートナーを可愛いと思うか、アホちゃうかと思うのか?大雑把な箒でざっと掃いておけばホコリは概ね取り払われるという発想と行動では、物質世界とは独立に言語システムを複雑化、洗練していくことを通じて感性や思考を高度なものにし続けることができるのが人類だと定義してくれたソシュールに甚だ失礼となる。

 物質世界ではなく人間社会が対象である場合、記号学的見地はより重要なものとなる。我々言葉の創造者と発信者がまさに恣意的に対象を切り取って制御することで、社会的構造を既定することになるからだ。

 とりあえず不快な現状を回避するレベルではなく、より協調的な未来を創造するには何をどうすればよいのかを考え尽くして打ち手につなげ、PDCAを回していかなければならない。神戸のとあるバーでは、掲示を撤回してメニューや注意事項を英語で表記する努力の結果、今では内外の客が談笑する姿が日常となったとある。

 立花隆の「宇宙からの帰還」に触れたのは大学も最終学年のおり。宇宙飛行士の誰もが地球を外から眺めて一様に感動する共通の気付きは、なんだ地球上には国境線など引かれてはいないではないか、民族だの宗教だの多くの諍いは人間が勝手に創りだしたまやかしに過ぎないということ。

 オンオフと問わず人間関係や社会、会社において恣意的世界の切りとりをしてしまっていることに気付いた善良な人々は即刻ギアを切り替える努力を促したい。記号としての言葉を手段としてそこに意味を与えて構造を生成しているのは他ならぬ当事者の我々であって、そこに予め実態としての社会が存在している訳ではないのだ。

 2014/04/29 09:04  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
老舗アパレルへの恩返し
私が業界にお世話になり始めた昭和50年代後期。当時それぞれの分野で活躍していたアパレル企業が半世紀を超える年齢に差し掛かっている。

 それぞれの分野とは、専門店卸、百貨店(ハコor平場)、子供服、DC系、ファッションビル系、地下街系etc.猫も杓子もSPAを標榜する昨今にあって、自社のアンカービジネスを頑なに守り続けている企業も少なくない。ところが、時代の変化にさらされた伝統的アンカービジネスは決して順風満帆ではない。

 その間の時代の変化を三つの視点で捉えて見る。

 第一は、消費者の変化。いつの時代にも「消費の多様化、高度化」と言われ続けてきたが、私は「疑似(バーチャル)化、軽薄短小化」と捉えたい。もともとファッションには物理的消耗品と精神的意味消費の二面がある。後に述べる第二の変化を背景に、小粒な品質とぱっと見のトレンド性を擁する商品がお手軽価格で供給されるようになったので、物理的消耗品はコモディティとして市場を確立し、精神的意味消費の場面では手段としての商品が本物で有る必要は必ずしもなく、なんちゃって商品での疑似体験で十分満足するレベルの消費感覚に退化してしまった。

 第二は、グローバルソーシング。メイドインジャパンが世界から安かろう悪かろうと称された時代をアッと言う間に通り過ぎて、インホンコン、インコリア、そしてインチャイナ、その後のプラスワン。コストは下がりながらも品質は何とか維持、場合によっては経験効果による品質向上を伴うことすら可能となったモノ作りの背景であるが、当該各国の経済が成長する限りはコストは上昇し続ける。ゴールのないマラソンを走るはしんどいと思うが、その自覚はあるだろうか?

 第三は、新興ディベロッパーの台頭だ。百貨店は広義のディベロッパーと言ってよいが、そこにGMS系、JR系、超大手不動産系が加わってきた。それぞれに固有のDNAを持っているので、開発段階に限らず運営段階になってそれらのDNAが顔を出すことになる。不動産開発とリーシングまでに徹する不動産系はまさしも、それ以外のディベロッパーはリテールとして館全体を運営するので、SPAとして出店しているアパレルと小売主体が二重構造化することになる。その二重構造は相乗効果が発揮できるメリットと矛盾が露呈するデメリットを孕んでいる。再販価格維持が崩壊しかねない旨を再三警告してきたが、もっとも大きく影響を及ぼしてしまっている原因はここにある。

 そんな中、ナショナルブランドを価格訴求により販促する遺伝子で育ってきた筈のセブン&アイが、セブンプレミアムで大成功している事例は潮目の変化を示唆している。彼らが切った舵はプライベートブランドをより高く売るというものだ。

 プライベートブランドをより高く売る、と聞いてドキッとするアパレル関係者は少なくないだろう。それはもともと俺たちの専売特許だった筈なのに…と。

 かなり高いレベルで専売特許を有する二社とプロジェクトが始まった。それぞれアンカーは異なるが、いいモノを高く売ってきたという点で共通であるとともにこの時代の流れを受けて、小売化や52週MDの精度アップを目指してきた点も共通している。

 それら新しい遺伝子を正しくブレンドするとともに、卸ビジネスや百貨店ビジネスの現代的あり様を追求していくことになる。迷走する巨体もある中、小回りの効く中堅企業が範を示すにはもってこいの舞台が整ったと感じている。
 2014/04/24 08:46  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
今年の新入社員
社会生産性本部の名付けは“自動ブレーキ”とされた今年の新入社員。果たして、私の目にはどのように映ったか?

 結論から言うと、ドライバーが不甲斐ないからクルマが勝手に自動ブレーキを作動させるに過ぎないということだ。

 ドライバーとは、社会であり会社であり、上司であり先輩である我々のことだ。クルマはガソリンで走るのは言うまでもないが、この場合のガソリンは彼ら彼女らのモチベーションだ。次に必要なのは正しく配線された電装系であるが、これは当人の良識に依存する。

 現代ならではの重要な知の動力源はコンピュータであるが、そこに正しくインストールされるべきソフトの開発者は私たちに他ならない。せっかく健全な躯体をもっている彼ら彼女らに的確なプログラムを提供することができているだろうか。プログラムはコーディングの集積であるが、そこでは使用言語が問われ、何よりもアルゴリズムがもっとも重要なカギを握っている。

 使用言語とアルゴリズムの基本の基を伝授するのが新入社員研修であるが、受け皿としての確実性と可能性はこれまで同様確信をもって確認することができたという印象がある。
私たち先人は、さらなる先人に学ぶと同時に後人を正しく導く責務を負っている。“最近の若い者は…”という数千年来の命題は、責任放棄以外の何物でもない。知覚としてそのように感じるならば、行動として発現していくべきことが多々ある筈だ。

 そのような社会的責務を一部でも果たすことができているとしたら、毎年ほんの数十名〜百名強の接点に過ぎないが、社会的一機能を全うしているという大きなやり甲斐を感ずることができる。ソメイヨシノは散り去ったが、魂は蓄積し続ける。

 ゆとり教育の弊害ではないかと大底感があった三年間から一昨年、昨年と徐々に元気と主体性を取り戻しつつあった新入社員世代であるが、今年は不連続の変化と断じざるを得ないほどの印象を受けた。まだまだ捨てたものじゃない。私たちの不断の努力さえあれば、次世代は確実に反応してくれると実感した。
 2014/04/14 19:22  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
ちょっと哲学
暮れから年明けにかけて、哲学の分野に手を付けて概論書を数冊読み込んだ。

 サイモン・シンや手嶋龍一に寄り道をしたので、ようやくちょっと各論に入り込むことができた。手始めはソクラテス、プラトン、アリストテレス。

 ソクラテスには天然の知の探究者だったのだと感銘を受け、プラトンには浅知恵で“イデア”や“プラトニックラブ”を語ってはならないと反省させられ、アリストテレスには、アカデミズムの父として最敬礼。

 そのうち、プラトンの哲学からアパレル業界の四半世紀を読み解いてみる。

 パイドンにおいてプラトンは、“生き延び”の原理に導かれて生きる“身体の愛求者”(=金や名誉を追い求める人々)は、触れたり見たりできる“モノ”的な性格のものだけを真実の存在として追究すると断じた。

 それと相対するのは、心や魂に関わる諸価値を含めた人間にとっての総合的な価値であるところの“精神”原理であり、精神原理とは、すなわち総合的価値としての「善」への志向であると。マーケティングにおける、モノからコトとという議論もプラトンのフレームワークに依拠したものと言うことができる。

 円安やアベノミクスの影響で、さらには税率アップの前後で賑やかな業界や商品は少なくないが、アパレル業界の活気は乏しい。

 SPAなる言葉が世に登場しておおよそ四半世紀。ロジックを駆使した再現性のあるMDは時代の寵児となったが、そこで我々が追い求めてしまったのは生き延び原理に過ぎなかったのではないだろうか。

 ブランドとは本来物質的なものではなく、精神的満足をもたらす価値としての「善」そのものではなかったか。身体の愛求者に成り下がってしまったブランドは、もはやブランドではなく、見た目今風の表皮をまとっただけの乾いたモノの集積に過ぎず、皮をはがしてしまえば何も残らない似て非なる空虚だということは、いずれではなく、もはやばれてしまっていると自省しなければならない。

 心や魂を揺さぶるブランド力に回帰しなければ、ブランドビジネスの未来はない。とはいえ、業を営む以上は経済合理性を無視することはできないのが現実だ。経済合理性を手段として精神合理性を目指す新たなMDロジックが次なる課題として見えてきた。課題は見えたがアプローチの開発はこれからだ。

 ありがたいことに、思考し議論する場が新たに三つほどスタートする。既存のクライアントとのテーブルももちろんレシピ開発の実験場だ。ネクストステップは見えてきたが、エグジットはまだ見えない。ただし、舵の切り方はわかっているので必ずや何某かのゴールに到達することは確信できる。

 ブランドとは魂なのだ。
 2014/04/05 16:37  この記事のURL  /  コメント(0)  / トラックバック(0)
プロフィール

北村 禎宏(きたむら さだひろ)
ファッションビジネスコンサルタント
アパレル企業での実務経験とMBAの経営理論を融合させ、クライアントの問題解決やアドバイザリー機能を提供。
「アナログ」と「デジタル」、「実践」と「理論」のハイブリッド型コンサルティング活動を実践するとともに、教育・研修事業も鋭意展開中。

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