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メタファー |
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経営学に限らず、様々な学問の分野や実務の場面で役に立つのが“メタファー”です。
メタファーとは、“隠喩”とか“暗喩”のことで、洋の東西を問わず高度なテクニックが古く存在しています。
メタファーのアカデミックな定義は、次の通りです。
1)直面する事実の本質的構造を理解した上で
2)同じ構造の別の事例を検索、表現することで
3)理解の促進を図ること
先日、店頭のMDカレンダーと販促プランのミーティングの場で、こんな話になりました。盛夏を前にして、店頭販売の企画を練りたいのだけれど、あれは去年やったし、これはもう飽きられているだろうし、ネタが尽き果てた…と。
そこで、私から一言。
提供する側のプロが陥りがちなパラドックスがあります。実は消費者は今年もそれを待っているにも関わらず、サプライ側がマンネリ化してしまっていて、奇をてらった策を弄して結果的に顧客の支持を得られないという現象が、まま発生します。
数十年の長きにわたって支持されている“水戸黄門”のPM8:45の安心感たるや、何にも代えがたい価値がありますよね。また、最近の成功番組では“ごくせん”がありますよね。全てストーリーは見えているのですが、絶対に期待を外してくれないオチにリピーターは納得、満足しているのです。
ただ、黄門様や助さん格さん、弥七などが代々変わっていき(由美かおるだけは不変ですね)、ごくせんではジャニーズのメンバーが代替わりするところに、変わらないものの中にちょっとした変化がありますよね。
MDの基本スキームは、“変わらないもの”と“変わるもの”の絶妙なハーモニーです。水戸黄門とごくせんというメタファーのおかげで、ミーティング出席者全員が何をなすべきか、お腹に落とすことができたのでした。 |

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契約に関する大いなる誤解 |
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契約および契約書にかかわる大いなる誤解をされているケースや、詳細を理解されていないケースにに少なからず出くわします。
「口頭すなわち単なる口約束でも、契約としては立派に成立している」という程度の知識は皆さんご存知のことと思いますが、少し突っ込んでいくと怪しくなる方は意外と多いのではないでしょうか?
では、問題です。
1)口頭でも契約が成立しているとなると、いわゆる“契約書”にはどういう意味と役割があるのでしょうか?
2)当事者が記名押印もしくは署名した契約書と、単なるメモやメールでの約束事はどう違うのでしょうか?
3)“契約書”よりも“覚書”の方が、簡略で法的効果も弱くなるという理解は正しいでしょうか?
さて、正解です。
1)契約は、口頭だろうが書面だろうが手段は問わず、当事者間の約束が成立した段階で実体として有効に存在するものです。ただし、その実体を目で見える形で第三者にも正確に伝えるために、何がしかのエビデンスが必要で、それを“契約書”として作成するのが無難であるということなのです。役割としては、当事者間で約束事の再確認の拠り所になるとともに、最終的には裁判所での証拠となるものが契約書です。言った、言わないの醜い争いはよく見聞きしますよね。
2)証拠能力の高低に差がつくだけで、メモやメールもちゃんとした記名押印や署名がある契約書に準じる立派な契約書の範疇に入るドキュメントです。刑事裁判は疑わしきは罰せずという原則にあるように、完全に真っ黒であることが立証されない限り有罪にはなりません。(実体は甚だ怪しいですが…)一方で、民事裁判は真実とは別の次元で、訴訟という手続の中で証拠能力の高かった方が勝ちます。より証明力の高い証拠を積み上げて裁判官の心
証を勝ち取った方が勝訴するのです。誤解を恐れずに言うと、民事裁判はゲーム的要素が強いのです。すなわち、より強力なレアアイテムを持っているプレーヤーが勝つということです。
余談ですが、法律的には“記名押印”もしくは“署名”と表現するのが一般的で、“署名捺印”という表現は俗語でございます。
3)書面のタイトルは、契約の実体や効力には一切関係がありません。したがって、“契約書”だろうが、“覚書”だろうが“確認書”だろうが、タイトルは何だってかまいません。“契約書”と表題が打ってあっても中身が約束事になっていなければ、それはただの紙切れに過ぎません。
“行列のできる法律相談所”は高視聴率をマークしていますし、NHKの“バラエティ笑百科”は20年以上も続いている長寿番組です。人々が、正確な知識を持ち合わせてはいないけれど、実は身近だったり切実だったり関心があったりするのが法律案件ということの表れでしょうか?
裁判員制度の導入も間近に迫っています。少しでも皆さんの注意と関心を喚起し、お役に立てる法務事案を取り上げることができればと思っています。
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現代アート |
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加護野ゼミOB研修旅行記の最終稿です。
NTNさんと林原生物化学研究所さんの見学および、そこから得られた知見をベースにしたゼミナールで過ごした一日半のあとは、ベネッセハウスと直島にて現代アートを堪能いたしました。
まずは、ベネッセハウスから。話には聞いていたのですが、郷里の岡山の地元(正確に言うと香川県ですが、岡山県の宇野港からフェリーで20分ですので)でもあり、現住所の神戸からも中途半端に近いことから、わざわざ行って見ようという気が起こらないまま今に至っていました。
安藤忠雄さんの建築物は、前職やコンサルティング先のオフィスにて何度か経験しており、決して使い勝手が良いものではない(建築として否定している訳ではなく、空調が効きにくいとか仕事をする上での導線が決して良くはないという意味です)という印象だったのですが、あにはからんや、極めて快適な二泊を過ごすことができました。
オフィスという視点ではなく、リゾートやミュージアムという立ち位置から経験すると、こうまで印象が異なるものかと新たな発見をいたしました。部屋にはTVなどという野暮なものはなく、BOSEのラジオがポツンと一台。とてもお洒落で快適な空間でした。
食事は、和洋、夜朝とも、瀬戸内の素材の新鮮さもさることながら、入っているレストラン、シェフのセンス、腕前とも超合格点。トロッコに乗ってゴトゴトと山頂まで上ったところにあるバーも素敵でした。
現代アートとの出会いは、95年のNYの近代美術館においてでしたが、そのときとは全く異なる感動が直島ではありました。NYでは、何かとても人為的なテクニックばかりが前面に感じられて、インダストリアルなインパクトは感じたのですが、マインドに響くようなそういう心の慟哭を強く感じることはありませんでした。ところが直島では、人間の息吹というか、生活観というか、そんななかで共存、自己主張しているアートが絶妙なコントラストで私の体に飛び込んできました。
地中美術館もベネッセミュージアムもよかったのですが、特に、街中の民家の中に点在する“家プロジェクト”がそのような印象を決定付けたのではないかと思います。
一泊ではちょっと強行軍になりますので、できれば二泊してじっくりと島全体を堪能してみてください。私も島内の鑑賞には半日しか使えなかったので、そう遠くないうちにリピートしたいと考えています。
余談ですが、当日は打ち合わせを兼ねてご滞在中の安藤氏ご本人や、撮影のために来られていた福武總一郎氏のオーラにも触れることができ、大きな収穫のあるゼミ旅行を終えることができました。
いつもながらの節を聞かせていただいた加護野先生、遠路より集まった同窓の諸氏、また新たな試みとして加わっていただいた05年組の皆様、有意義な三日間をありがとうございました。次の金沢の製薬工場視察を楽しみにしています。 |

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加護野ゼミOB合宿(2) |
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加護野ゼミOB研修旅行記の第二弾です。
NTNさんの岡山工場に続いて訪問したのは林原生物化学研究所です。学生さんから社会人まで年間4000名程の見学者が訪れるそうで、案内いただいた広報のご担当者も大変手馴れておられました。
数年前に林原健社長が「私の履歴書」を執筆されましたが、株式公開企業ではないので、比較的パブリックな情報が少ないことから、とても貴重な初耳情報がたくさんありました。
まずは、経営の羅針盤とも言える基本ポリシーから。
1)Only Oneでその分野でNo1を目指す
2)商品や研究テーマはシーズから(消費者ニーズからは入らない)
3)戦略的に非上場を貫く(小さくても存続できる企業を目指す)
4)メセナは企業の生命線(慈善事業として実施しているのではない)
マーケティングを行うと、他の(大)企業と一緒になるので、それでは林原の良さが出せないので一切マーケティング活動は行わないとのこと。石井淳蔵先生とバトルするとどんな議論になるだろうかと皆でささやき合いました。
また、林原社長は異分野の知識、経験こそが創造力の原点であると考えておられ、メセナの諸活動がまさに創造的研究活動の源泉となっているそうで、そういう意味でメセナが生命線なのだそうです。ちなみに類人猿研究センターのチンパンジー諸氏は、人間である社員と同等にさん付けで呼ばれて大切にされているそうです。
もっとも驚いたことは、広報ご担当者の“うちの社長は、グループ全体の売上や利益をおそらく知らないと思います…”というお言葉。経営のそういう部分は弟さんでいらっしゃる専務が取り仕切っておられるのでしょうが、トップが売上や利益にそれほど大きな関心を持たないというところに同社のユニークさと強さを感じました。
翌日のゼミでは、林原さんの見学を受けて、「ファミリービジネス」がひとつのテーマとなりました。ファミリービジネスとは広義には非公開の企業であり、狭義には同族、家族経営のオーナー企業を意味します。ニッチな案件、リスクの高い案件、成果を見るまでにかなり長期間を要する案件など、ファミリービジネスでないとコミットできないものがたくさんあります。事実、林原社長は“5年、10年を要する研究テーマの選定は全て自分で行う”と。
変化の激しいマーケットでコミットすることの非合理性とリスク分散の共存がもっとも上手い企業の一社がアパレル業界にもありますが、彼らが非上場の道を歩んだのも同じような文脈を読み取ることができます。 実際、上場を果たしたファミリー企業の約三分の一は上場後もファミリー経営を貫いているという研究結果もあります。
10億円ものお金が使い込まれることを見過ごしてきた某団体の会計課の方々。他人様から預かったお金なので文字通り他人事だったのでしょうね。1989年に当時の社長の“パブリックカンパニーを目指す”という上場宣言を聞いたときには鳥肌が立ったのですが、“公”とか“パブリック”という言葉に妙に空虚な響きを感じざるを得ないのは、気のせい?それとも、齢のせい??? |

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加護野ゼミOB合宿(1) |
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加護野先生とゼミOBの方々と恒例の研修旅行に行ってまいりました。
今回の訪問企業は、NTNの岡山工場と林原生物化学研究所です。
前回、宮崎のダンロップのタイヤおよびゴルフクラブの工場見学とシーガイヤでの丸山CEOとのディスカッション以来、約一年半ぶりのゼミ合宿でした。
まずは、NTNから。東洋ベアリングと言うと、ピンと来る方も多いと思いますが、ベアリングの大手優良企業で、岡山工場では自動車用の等速ジョイントを生産しておられます。
最初の感動は、ここで生産された等速ジョイントが、はるばる海を渡ってバイエルンでアセンブリーされて再び日本に戻ってきて私の愛車を支えてくれていることを始めて知ったことでした。
そんな個人的感傷はさておき、当日のサプライチェーンの視点から見た議論のポイントは、海外のサプライヤーには真似が出来ない日本的サプライチェーンの特徴と強みは何かということでした。
一言で言うと、「サプライヤーが後工程の工場を止めてはならないという供給責任を、契約上の条件としてではなく製造メーカーとしての倫理観として強く持ちあわせている。」ことです。
NTNのサプライヤーとしての倫理観がトヨタをはじめとする自動車メーカーの供給力を支えており、詳述は避けますが、住友金属がJRを支えているという図式です。そのおかげでJRは安心して世界に類のない正確無比なダイヤを維持することができ、ひいては電車で通勤したり移動するビジネスマンの不遅刻を支え、分単位のアポイントを可能とし、結果的にわが国のあらゆる企業の利潤の源泉になっていると。ただし、それらは契約書の上で明示されているわけではなく、サプライヤーの精神の中に存在しているものなのです。
そのことを最初に指摘したのはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」で、そこでは“人間の仕事は他の人間によってチェックすることはできない”と説かれています。すなわち、契約書上の条件で相手方の行動を本質的に律することはできないのです。この議論は、モチベーションで言う、“内発的動機付け”や“内省”というキーワードにも通じているなと感じました。
NTN見学から導出された知見には、二つの含意があり、ひとつは“サプライチェーンの書かれざる見えざるルール”ともうひとつは“各企業の利益の源泉は、企業や業界の枠組みを超えて存在する社会資本的な価値連鎖の中にある”ということです。
林原生物化学研究所と、宿泊およびゼミナールに使用した直島のベネッセハウスのお話は次回に。 |

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24年の歳月を経て(2) |
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総合商社の新入社員の方々との三日間の真剣勝負が終了しました。
ずっとしゃべりっ放しという訳ではありませんが、さすがに連続して合計26時間のプロセスオーナーを貫徹するとさすがに疲れました。とはいえ、強くコミットできた研修の後にいつも感じることですが、それは自己破壊的に沈殿する疲労ではなく、次なる自分に繋がる正のエネルギーとして創造的に蓄積するとてもさわやかな疲労感です。
私の社会経験の年月を下回る年齢の方々を面前にしていることに改めて驚愕(おおぉ、こんなにオッサンになってしまったのか…)しながらも、全く違和感なく時間を共にすることができたのも、受講者に皆さんの素材としてのレベルとモチベーションの高さによるものと感謝しております。
随所で、「私のビジネススキルの源泉は、実は皆さんの先輩から授かったものである。」ことを引用しながら、予め用意されたプログラムの他に、私がその先輩から教わった原理原則をいくつも紹介させていただきました。教わったから、教える。借りたから、返す。授かったから、捧げる。人間にとってごく自然で、当たり前の感覚ですよね。法律とか宗教の前に、そのような哲学的普遍的モチベーションが我々には生まれながらに備わっています。
法律の世界も、普遍的で一貫した思想で貫かれているからこそ、法が法たる所以ですが、少なくとも一つ腑に落ちない二つの規定が知的財産権の中に共存しています。それは、特許で保護される発明と不正競争防止法で保護される営業秘密です。特許法の思想的根拠は、「人類にとって発明という行為が奨励されて無限に生み出され続けることは文明の発展を通じた社会の進化にとって不可欠のものであり、そのような発明が容易に他者に模倣されることでオリジンを生み出すモチベーションが阻害されることがあってはならないので、逆に一定期間は発明者に独占排他的権利を付与してそのモチベーションを維持する。」という考え方です。
片や、不正競争防止法の下で保護される企業秘密は、「経済的競争はフェアに行われるべき(この点では独占禁止法の思想に近い立脚点ですが)という考えに基づき、物理的な犯罪である窃盗の構成要件を援用したスキームに支えられています。経済的競争や物理的犯罪は我々人間が後付けで行っている手段としての行動に過ぎず、人としての本質的目的や衝動と比べると一段下のレイヤーに属する行為と言うことができます。
つまり、特許法は人間の本能的衝動を奨励、保護するためのものですが、営業秘密は人間の下衆な利己的な衝動を律していることになります。ここで、本能=利己という前提をおいてしまえば、同じ思想であると考えることもできるのですが、私は人間が持っている本能的自己実現欲という意味での本能と下衆な利己とは全く次元が異なるものと考えます。
前者は生態系という、より上位の生命体の中に存在する遺伝子としての人間が次の世代に進化的突然変異を期待しながら情報を伝達していくことをミッションとしているのに対し、後者は当世すなわち自分だけがとても下品な利得を得られることができれば、後のことは「わしゃ、知らん。」というスタンスに過ぎないと私は考えます。特許法は前者に依拠していますが、営業秘密の保護は後者の位置づけとしか感じられないことが私が腑に落ちない理由です。
情報を出すから情報が得られる。情報を得たから情報を出す。この本能的衝動に対する自由度が狭くなってきたことが、私が前の会社を卒業することを決意した大きな理由のひとつです。今回も、そのような私らしさを存分にさらけ出すことができる機会を与えてくださった関係諸社および諸氏に感謝するとともに、何よりもそういう私に対して最大の反応と相互作用をしてくださった受講者の新入社員の皆様に深く感謝申し上げます。
受講生の皆さんの中で本稿を読んでくださった方は、当日学習した“ストローク”の応用編の議論だと理解していただけると幸いです。
皆さんに輝かしい未来のあらんことを祈念いたします。
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24年の歳月を経て |
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田代秀敏氏の「中国に人民元はない」という新書を読みました。
どうも北京への聖火リレーは平穏では済まなさそうなご時勢の下、出張先の本屋さんで手に取ったものです。中国はとにもかくにも、ないない尽くしのお国柄のようです。
企業法務の基本をたたきこまれた大手総合商社出身のボスから、“常に公正であれ”と教えられました。公正の“公”は“ム”すなわち私事に“ハ”すなわち背くことであり、“正”とは(常に判断基準が)“一”に“止まる”ことであると。
当時の私は、ボスの崇高な教えを、ひたすら畏れ入って聞くだけでしたが、冒頭の著書の中で24年ぶりにその出典を知ることになりました。
韓非子が、中国では公と私は絶対に相容れないとして、次のように説明したそうです。“私”は“禾”と“ム”の組合せですが、“禾”は穀物を、“ム”は領域を表すそうです。つまりは、穀物の自分の取り分が“私”ということになります。
その一方で、“公”は上の“八”の部分が、本来は自分の取り分である“ム”を上からちょこっとつまんで奪い去る二本の指を示しているのだそうです。中国では本来的に“公”は“私”を奪う存在だというパラダイムがあるのです。
けちょんけちょんに叱られまくったあの頃から、24年(四半世紀にちょっと満たないところがミソですが…)の歳月を経て、とても深いものに触れたような気がして、大きな余韻が残りました。
明日から三日間、そのボスの出身母体の商社の新入社員の方々の研修のお手伝いをさせていただきます。冒頭での挨拶の趣旨は決めてあります。
「皆様の大先輩からの大いなる教えのおかげで今の自分があり、その恩返しが少しでもできればという想いから今日はこの場に立たせてもらっています。皆さんも何十年か後に、同様に次の世代に何かを伝道していける社会人になってもらいたく、私はこの三日間エネルギーを出し尽くします。」
肉体的にはハードな日々が続きますが、精神的エネルギー充填度は120%です。
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法人格のジレンマ |
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カテゴリは企業法務としましたが、入口が企業法務で出口がMBAのココロになる議論です。
法律行為の主体者になるには法人格が必要で、商標などの産業財産権の所有権者になるにも当然、法人格が必要となります。
日本国憲法の下で、我々日本国籍の自然人は生まれながらにして法律上の人格を有していますが、その権利能力や責任能力については民法、刑法それぞれで20歳とか14歳とかさまざまなボーダーラインが規定されています。
今となっては、(国によっては未だのところもありますが)当たり前のこの基本的人権も、歴史的に確立されたのはほんのここ数百年のことに過ぎないことを忘れてはなりません。
さて、個人個人は独立した人格を有する人間が複数集まって組織を構成したときに法律上どのように扱うかが問題になります。そこで法人格という概念が必要となってくるわけです。組織が法人格を有するためには商法や会社法をはじめとするそれぞれの法律の手続にしたがって設立や登記を行うことになります。
組織としての体はなしているものの、法律上の法人格がない集団のことを“権利能力なき社団”と称します。会社の中にあるサークルや法人登記していない労働組合などがそれにあたります。法人格がないことから、財産権をはじめとする法律行為の主体者にはなれないので、代表者や経理担当者が個人の名義で預金の管理などを行わざるをえません。もし、活動の結果として利益が発生した場合には納税が問題となります。これには様々な問題点や諸説があるのですが、本稿の趣旨とは異なるので割愛いたします。
会社の法人格は上記のような法律上の裏づけとは別に、その方向性や個性はトップが人間として体現しています。それらを共有するために、ビジョン、ミッションなどが文章として定義することは多くの会社で行われています。
ところが、非常に初期の濃い人的集合であるはずのベンチャー企業ですらトップと同じ目線で同じ立ち位置に立つことは意外とできていない現実に直面することが多々あります。先日あるベンチャー企業で、創業経営者の一人が社長に対して、社長の考え、意図が理解できない旨の発言をなさる場面に直面して驚かされました。
社員の心と頭のベクトルの方向あわせをしていかなければならない経営陣ですら社長と一定の距離があるとしたら…。
若い頃、頭ごなしに上司に叱られたときに、「私は君の人格を否定しているわけではない。君がビジネス上やった行為とその結果に対して怒っているのだ。」と何度となく言い聞かされました。以来、私の個人としての人格とビジネスは別物として扱おうという基本スタンスは身についたつもりでいますが、本当にそれでよかったのでしょうか。
創業者は、個人としての想いや人格そのものが会社すなわち法人格と一体化しているからこそ創業者であって、そうして初めて会社は成長していくものではないかと。その法人格と心と頭が分離して手足としてだけ動く仲間だったら、その人々がいくら優秀であってもでも会社は成長しませんよね。
法律的には法人格とそれに携わる人々の人格とは全く別次元のものですが、経営的にはビジョンとかミッションなどのきれいごとだけでは決して表現できない、心根というか魂というか、そういうものの強い結合が必要なのではないでしょうか。心霊主義的に表現すると、「幽体を通じて魂と肉体の強連結を図る」とでも言いましょうか。
そうすると、バリューブックやクレドなどが、“魂”に相当する部分と“幽体”に相当する部分にきっちり分解されてていて、整合性をもって表現されていないと、肉体には連結しにくいということになりますね。さっそくお手元のそれらを見直してみませんか。
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時間距離の相対性 |
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私事で恐縮ですが、二番目の愚息が無事高校に合格し、昨日、母親と一緒に入学に向けた諸手続を終えたようです。
私はというと東京日帰りの強行出張の一日でしたが、まずはランチタイムを過ごした浅草ビューホテルにて中学入学と見られる親子の大集団(きっとこれから午餐の大ペチャクチャ大会が開催されるんだろう…)と遭遇。
次に向かった浅草橋界隈では、きっと体操服と教科書が入っているんだろうと想像される大袋を抱えた高校入学と見られる親子の小集団との接近遭遇。そうなんだ、昨日は全国的にそういう一日だったのだと。
さて、私が中学生や高校生の頃、自分の両親や周りの大人たちは“すげぇ大人”と映っていました。ところが今、親としてその世代の彼らと接しながら感じることは、“俺たちってそんな大人でもなく、お前らにせいぜい毛が三本生えた程度に過ぎないぜ”という感触です。
小学校一年生のときに感じた、二年生って、なんて大きいお兄ちゃんなんだろう、六年生って、とんでもないもっと大きな人という感覚。その頃の夏休みは、終わってしまえば短かったものですが、それはそれは長い40日間でした。
ところが、この齢になると40日なんて一瞬の出来事で、日に日に時間の経つのが早くなると感じるのは私だけでしょうか?お年寄りの方々は毎日暇にしているのではと考えるのは全くの杞憂に過ぎないそうです。たとえば80歳のご老人の感覚では、我々の一年が一ヶ月程度のものだとか。
アインシュタインの相対性理論は、移動速度が速くなればなるほど時間の経過が遅くなり、光速で移動した暁には時間の経過がストップするというものですが、理屈として理解することも困難ですが実際に体験することはもっと難しいロジックです。
でも、私達人間が確実に感じることができる相対性理論は、齢をとればとるほど時間の経過が早くなるという現象だとすると、元祖相対性理論は光速で時間の経過がストップするのに対し、私達の人生の相対性理論では、無限に齢をとれば時間の経過速度も無限に最大化するということになりますが、それってどんな状況か想像できますか?
きっと、それは神様や宗教の世界に通じるのだと思ったところで、これってアパログ的話題としては?ということで本日はお開きです。 |

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何がどうなる? |
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何が何?で、何がいつまで?の議論を展開してまいりましたが、今回は、で、何がどうなるの?というお話をいたします。
他人の権利を侵害したら落とし前をつけなければならないことはわかっていますが、どんな落とし前が待っているのでしょうか?それを認識するには、権利の内容を理解しておくことと、法律がどのような救済を規定しているのかを知っておく必要があります。その上で、どの程度の罪の重さ(犯した権利の重大性と故意や過失の程度)なのかと、どの程度の罰(刑事責任=死刑・懲役・禁固・罰金と民事責任≒損害賠償)なのかがある程度見通しできていると、攻める場合も守る場合もおおよその当たりをつけることができます。
商標や特許などの産業財産権は、文字通り財産権にあたります。財産なので個人もしくは法人による所有の対象となります。ただし、モノとしての実体があるわけではないので、法的には排他的使用権が認められており、侵害された場合には禁止権と損害賠償請求権を行使することができると定められています。
モノとしての財産は、皆さんもたくさん所有していると思います。法律的には大きく動産と不動産に分けて議論されますが、動産の所有物の多くは身につけていたり自宅に置いていたり、会社のデスクの引き出しに入れたりしていると思います。そのような状態を占有といい、他人の占有物を自分や第三者の占有状態に移転させると“窃盗”になります。暴行、脅迫が伴った場合には“強盗”となり、窃盗の10年以下の懲役に対して5年以上の有期懲役と一気に罪は重くなります。
ちなみに、他人が置き忘れたり、落としてしまったモノは占有離脱物を呼ばれ、それをちょろまかした場合には窃盗ではなく“占有離脱物横領”となり懲役は1年以下と定められています。このように見てみると、同じ他人の財産権の侵害でも罪の重さに応じて合理的段階的に罰が規定されていることがよくわかりますね。
もうひとつ大事な分かれ目があります。親告罪と非親告罪です。強姦が親告罪で被害者の告訴がない限り立憲することができないことは残念ながら時々社会面で目にするので皆さんもご存知だと思います。
産業財産権の中では商標権のみ非親告罪で、特許、実用新案、意匠ともに親告罪です。また、著作権も親告罪です。従って、商標法違反は消費者からの告訴や警察が独自に動くことで事件となりますが、それ以外は権利者が告訴したり提訴しない限り事件になることはないのです。
いわゆるパロディは、著作権を侵害している場合も少なからず見受けられますが、本人が笑って見過ごしてくれれば問題になることはありませんが、商標権だけは別です。税関や警察などの当局がその意思と手によって動くことができるのです。重要度の軽重は簡単にはつけられませんが、商標権に関しては、そのことをよく理解しておく必要があります。 |

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何がいつまで? |
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時効とか一事不再理という言葉が久しぶりに世間を賑わせました。
法的権利の主体者は人に限られるのですが、会社や団体などは法人とみなして同様に権利の主体者になることができます。人はやがて亡くなり、法人は倒産したり清算しない限り半永久的に存続します。そこで相続や権利の存続、消滅のルールが必要となってきます。
産業財産権のうち、アパレル業界でもっとも馴染みの深い商標権は登録後10年間有効で、費用を納めて更新し続ける限り永久に権利を存続することができます。デザインを保護する意匠権や発明を保護する特許権はそれぞれ登録後、出願後20年で消滅する有期の権利です。考案を保護する実用新案は6年だった時期もありますが、今は出願後10年間存続します。
我々が工業製品としてアパレル商品を企画しても、そこには著作権は認められませんが、写真や絵画などの著作物を商品に転用することはあり得ます。著作権は、わが国では著作者の死後50年で消滅しますが米国では70年です。ハリウッドからの圧力の結果、わが国でも映画の著作権が公表後70年に改正されたことは記憶に新しいですね。さらに、米国では無名、変名、職務著作は発行後95年もしくは公表後120年と定められています。もっとやっかいなのは、この著作権の存続時期は国によって様々であるということです。
このように、以前お話した、何が何?という第一関門を突破した後には、何がいつまで?という第二関門が待っています。
冒頭に述べた時効は、1)一定期間継続した事実には法的保護が必要、2)権利の維持、行使に必要な措置を採らない者は保護する必要がない、3)長期間経過後の証明は困難なのであまりに過去に遡っての議論には限度が必要、の三点が根拠とされています。
ただし、国によっても時効に対する考え方や長短は異なりますし、連邦制を敷いている米国においては州ごとに制度が違います。さらに、刑法には属人主義か属地主義かという問題があり保護主義、世界主義という概念もあります。
サイパンは米国と連邦関係にはありませんが、独立国家ではなく米国の自治領です。今後は辣腕弁護士の手によって事実関係の議論ではなく手続の有効性を巡って高度な戦いが繰り広げられていくものと予想されます。
何が何で、いつまで、という法的権利関係の実体もさることながら、それらの権利をどのように実現、行使していくのかという手続に関しても、うっかりしていると大変なことになりかねませんね。
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ネットワーキング |
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神戸大学の社会人大学院の同窓組織で、“MBA Cafe”という組織があります。
年に数回のネットワーキングイベントが開催されているのですが、本日「MBAアルムナイ・ネットワークについて考える」というタイトルのイベントでパネリストをやらせていただきました。基調講演は、金井壽宏先生の「心あるネットワーキングについて」(副題:社会関係資本としての同窓会、そしてMBA Cafe:活用したいがいやらしくは使いたくない)でした。
金井先生からの問題提起、およびパネルディスカッションを通じて印象深かった議論のうち、今回は二点を皆さんと共有したいと思います。
第一に、デイビット・エイカンが名づけた“コミューナル”という概念です。もともと、“エージェンティック”という、とてつもない勢いで物事を成し遂げる人々を指す言葉があるのですが、それは反面、誰かの手先になって必死で頑張ることと表現することもできるそうです。そういう人々が集い、“ともに成し遂げてている”という実践的コミュニティ感覚をもつこと、そのような志向性をコミューナルと呼ぶのだそうです。
私達人類の究極は神様のエージェンティックとして生きることだそうですが、そこまで達観はできないにしても、私達は日ごろからミッションや尊敬できる上司や社長のエージェンティックとして日々業務に邁進しているものです。
ところが、このエージェンティック指向が行き過ぎると、これはギスギスすることになるようです。今日の議論で、私が前職を去って今何を求めようとしてるのかをはっきりと認識することができました。実は、ワイワイガヤガヤと皆で何かに向かっている自分がとても居心地が良いのですが、あまりにエージェンティック指向が強調され過ぎたことが違和感を飽和点に導いたのだと当時の自分を振り返りました。
第二は、組織やネットワークが有する特徴としての“強い連結”と“弱い連結”です。会社という集団は、一般的社会関係性からすると、より強い連結を有する組織です。一方で、同窓会などに代表されるボランタリーな集団は比較的弱い連結の組織ということができます。
実際には会社の中にも相対的に強い連結や弱い連結の様々な公式、非公式の組織が存在しますし、同好会的な集まりの中にも、とてつもなく強い連結が存在することもあります。
強い連結の特徴としては、その集まり自体に対する高いコミットメントや愛着がある、集まり自体に価値があり自己目的的に形成されている、極めて類似性の高い価値観が集合しているなどの、いわばクラブ的な意味があります。一方、弱い連結は、道具や手段として緩やかに集まっているが、そのこと自体にはあまり価値がおかれておらず、多様性が受容される、いわばフォーラム的な位置づけになります。
エージェンティックとコミューナルを一方の軸に、強い連結と弱い連結を他方の軸にとってマトリクスを描いてみてください。マトリクスのセオリーには反しますが、(仮に、直線的相関関係が強い二軸をとった場合、それは有益なマトリクスにはならない、すなわち、現実的に存在するのは左下のセルと右上のセルしかあり得ず、その余のセルは理論上の空想のセルになってしまうということです)、実は現実的には存在しにくい“エージェンティックなんだけど、弱い連結の集団”、“コミューナルなんだけど、強い連結の集団”があったら、それは素晴らしいことですよね。
そういうことを求めて会社を飛び出した自分なんだなということを再認識した一日でした。 |

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チーム“アバウト” |
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チーム“アバウト”の面々と食事をご一緒する機会がありました。
当日は田園都市線の池尻大橋で合流してという段取りだったのですが、お一方は一駅隣りの三軒茶屋駅まで行ってしまい折り返し池尻大橋まで戻られたとか。急行(池尻大橋には止まらない)に乗ってしまったの?と訊くと「いえいえ、各停でした」。さらにお連れの方は、二子玉川まで行って引き返したとのこと。(二子玉川は、三軒茶屋からさらに四駅離れていま す)
山手線の東側のオフィスにお勤めでいらっしゃいますので、チーム“アバウト”の面々からすると渋谷から一駅に過ぎない池尻大橋ですが、はるか西の彼方の「とりあえず、あの辺!!」ということで電車に乗られるのだとか。
新人の頃、報告書の表現で大きな雷を落とされました。大手GMSがディスカウント型新業態を出店した際に、取引口座はないにもかかわらず会社のブランド商品がコーナーになって売られている現場を調査したときのことです。“店内には、どのフロアも客がウヨウヨしており…”や“驚くほど大量の商品が…”などの表現に、「まったくビジネスレポートになっとらん」とつき返されたのです。ビジネスの中でもとりわけ法務の分野では抒情詩は求められておらず叙事詩的表現が必要なのですが、当時の上司には私もチーム“アバウト”に映ったのでしょう。
我々の業界には“バックリ”とか“バクっと”などのアバウトな状態を形容する用語があります。また、自嘲気味に「私はアナログ人間なので…」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、実は“アパレルを科学する”ことにアナログアプローチは不可欠なのです。
アナログとは、連続しているある量を他の連続する量で表現することを意味します。他方、デジタルとは、状態を表す量を数値化することですが、数値化の過程で連続する量を離散的な数値として表現せざるを得ません。すなわちアナログ処理では元の情報の全量が保存される可能性がある一方で、デジタル処理では元の情報の一部を捨て去っている可能性があるのです。
たとえば、アナログ時計を見て12時ジャストだと認識したその人は、11時59分頃から12時01分頃までの時間の全量を捉えていますが、デジタル時計で12:00'00という表示を見た瞬間には百分の一秒以下の時間を捨て去っているとともに、視覚情報が脳に伝達されて認識するまでに時間を要していますので、ほんの暫く前の過去の時間を現在時刻として認識していることになります。(神経を伝わる情報の速度は、毎秒50cmから120mの間です)
売上や利益はSKU単位のデジタル情報の積み上げの結果です。デジタルであるがゆえに、捨て去られた様々な情報がこぼれており、本当の事実とは少しずれた情報を認識している可能性があります。そこで、アナログ処理が必要となるのです。デジタル情報をアナログ処理して意味情報としてストックし、当該シーズンの修正MDや次シーズンの初期MDを通じてデジタルな品番やSKUに落としていく。マーチャンダイジングとはまさにそういうプロセスを踏むことに他なりません。
財務的に数字が読めるということと、前述のプロセスを踏むことができることとは若干アプローチやノウハウが異なります。私がMDのサポートをさせていただく際にはMDの方がアナログ処理して意味情報を引き出しやすいように様々な工夫を凝らします。
“辛子明太子”を“サチコのメンタイコ”と注文する○○さん、朝礼で、“世間ではバルブもはじけたので、気を引き締めて基本に戻るように”と朝礼で訓示される△△さん、焼酎のお湯割りを“7:4で割って”と注文してマスターを悩ませる□□さん。業界の愛すべきチーム“アバウト”の皆さん、安心してください。アパレルを科学することのプロセスは、デジタル処理→アナログ処理→デジタル処理の繰り返しです。アナログ処理能力がない人にいいMDはできません。でも、デジタル処理もできないと商品は上がってきません。
最後に、“アナログ”のことを“アナグロ”とおっしゃり続けていた××さん。当時、間違いを指摘する勇気が出せなかった私をお許し下さい。 |

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企業は人なり |
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“企業は人なり”とは、言い古された言葉ですが、この週末、そのことを痛感させられる経験をしました。
関西の中堅美容サロンのスタッフ20名弱を対象にCRMのレクチャーをやらせていただいた時のことです。ブランディングおよびCRMの確立を目指すプロジェクトの中での一環で、私がCRMの基本的考え方と事例をお話させていただきました。土曜日の営業終了後の時間帯(みなさん、いつもそうして集まっておられるそうです)から、22時を回る時間まで息つく暇もない熱いディスカッションが繰り広げられました。
店長、副店長はむろん現場でのスタイリストを兼ねていますが、営業部長やマネージャーの方々も現役で現場業務をこなしながらの重責でいらっしゃいます。そんな、彼ら彼女らの年齢が若いこともありますが、とにかく全員が元気がよくて向学心に溢れていることに圧倒されました。さらに、オーナーのポリシーがしっかりされていることと基本的教育が行き届いておられることから、皆さんとても礼儀正しく、教えている私の方が、逆にいろんなことを教えられました。
20代の若者達のパワーに負けないよう、私も大きな声で挨拶して、しっかりと講義させていただきました。皆さんも多大な刺激を受けられたようで、日本初の、もしくは日本一のプログラムやメニューを開発するんだと張り切っておられました。いやはや、頼もしい限りですね。
この年齢になってそのような若い人々の中に入っても、元気と挨拶には負けないでいられる自分のルーツは、前職の新入社員時代に各種研修やOJTに鍛え上げられたことにあると改めて感謝しています。その会社は、十年以上も定期新卒の採用をしていなかったのですが、今春は久々に新卒をある程度の人数採用すると風の便りに耳にしました。
しばらく社内で聞かれることのなかった若い社員によるとりあえず大声の挨拶が飛び交う光景が復活すればいいなと願っています。元気と礼儀と大きな声での挨拶。ごく当たり前のことですが、これがどれほどの好影響を周りの人々に与えることか。受講者の皆さんから伝わってくる人間力と組織力に、当該サロンの輝かしい未来の予感を感じさせられたのでした。
雪の降りしきる中、終電で帰路につく私の心はとてもさわやかでした。 |

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何が何? |
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今週、某社にて産業財産権のミニセミナーを開催します。
産業財産権は法律では、「特許」「実用新案」「商標」「意匠」「著作物」「商号」などと定義されていますが、デザインや企画に携わる多くの現場の皆さんには、自分たちの業務を取り巻く様々な事象の中で、何が何に相当するのか、実はあまりよくわかっていないというのが実情のようです。
我々は日常的には、「社名」「ブランド名」「ショップ名」「デザイン(洋服全体のシルエットからディテール、色、柄、ワンポイントにいたるまで様々な意味で使われます)」などの言葉を用いて業務上の対象を認識しています。ところが、それぞれが法律上の何にあたり、どんな認識や注意が必要なのかを理解していないと他人の権利を侵害したり、自らの権利の正当性を主張できなかったりということが起こります。
法律には、「実体」と「手続き」が定められています。実体法と手続法という分類です。実体とは権利の中身と権利の主体、守られるべきもの(法益)などが定義されています。手続法では、行政上の手続きや法的効果を発生させるための手順が定められています。
たとえば、特許庁に商標を登録すると「商標権」が発生します。商標権は登録権利者に対して「排他的使用権」と「禁止権」と「損害賠償権(民法も加わります)」を付与するものです。したがって、「財産権」と「差し止め請求権」を規定している法律ということができます。
裁判員制度の導入を前に、日常的ではない法律用語を平易に表現していく動きもあるようです。とはいえ、プロとしては、自分たちが携わっている業務にまつわるルール、すなわち関連諸法を知らないでは済まされないという自覚を持つべきです。ストライクを三つとられてもまだバッターボックスに突っ立っている打者がいたとしたら、それはプロとは言えませんよね。
法律とは社会的関係性の中で権利と義務を定めたものです。そこでは権利の中身と権利の主体者、および権利の実現方法とそれらの裏返しとしての義務が規定されています。
平たく言うと、やっていいこと、やれること、してはならないことのルールブックが法律です。繰り返します。ルールを知らないままスポーツをプレーすることは滅多にない我々なのに、専門的に従事している業務にもかかわらず、実はルールをよくわかっていないというのが正直なところではないでしょうか?
ちょっとみんなで胸に手を当ててみませんか?
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産業財産権 |
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昨日、とあるクライアントとの議論で、コンペティターのメーカーの売れ筋のアイテムの同様素材の同じアイテムを製造することの是非がテーマになりました。
いわゆるデッドコピー(先行商品の全くの模倣)は不正競争防止法に引っかかる可能性が大ですが、下記の趣旨のお話を差し上げたところ、トップも納得しておられました。
デッドコピーは法的にも商道徳的にも許されるものではありませんが、市場の売れ筋から消費者から支持されるキーワードを読み取って(もしくは先取りして)、それを自社の技術と世界観で再現することは、ある意味ファッション業界におけるモノ作りの本質であって、必要以上に苛まれることはありません、と。
ただ、市場やサイト上に露出した自社オリジナル商品がいとも簡単にパクられてきた経緯に辟易してこられたご当人としてはセンシティブになっておられるのだろうと想像いたしました。
はたして、表題の産業財産権について正しい認識と運用ができているアパレル企業と関連業務の従事者はいかほどいらっしゃるでしょうか?
模倣は人類にとって学習の源泉にほかならないのですが、ビジネスの場面ではルールの遵守と倫理観の維持が重要となります。わが国を含めて、今では先進国と呼ばれている各国もその歴史の過程ではルールと倫理よりも経済成長が優先してきた結果として今があるという事実は否定することができません。世界に目を向ければ国レベルで、わが国の業界内でも企業や人レベルで、それぞれの進化のステージは偏在しています。にもかかわらず、我々は国境を越えて同時代の同じ時間を共有せざるを得ないのです。
古くは「工業所有権」と称されていた表題の「産業財産権」には、“特許権”“実用新案権”“商標権”“意匠権”が含まれています。また、それらに“著作権”を加えて「知的財産権」とも呼ばれたりします。知的財産権としてはそれら五つの権利ではカバーしきれない様々な無形資産が“不正競争防止法”によって保護されることになります。「無体財産権」とも総称される場合があるのはそういう意味です。
知的財産権の議論を少し深めることで、法務全般にわたる基本的フレームワークとそれをビジネスの場面にどう適用していくかのセンスを広範に共有することができます。しばらく知的財産権にまつわるお話を続けてまいります。 |

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ヘリコプタービュー |
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発想や議論が行き詰ったときに、「ヘリコプタービュー」を持つと創造的解にたどりつけることがあります。
新入社員のころ、ボスからよく“お前は、ミミズか!!”と叱られました。なぜミミズかと言うと、地べたを這い回って、壁にぶつかると適当に向きを変えて、また壁にぶるかるとさらに適当に向きを変えて、穴があったらそこに落ちるし、全くもって目的地に近づいていないと…。
当時、紳士系のブランドで偽者が横行しており、それらを扱っている善意ではない業者や人物に対する対応を担当していたときに、よくそうやって怒鳴らたものです。いまでこそ、知的財産権の事件で警察が動いてくれる世の中になりましたが、当時は単なる民事という扱い
で警察はまったく関与してくれない時代で、民間企業の一新人が四苦八苦して対応していたのでした。そんな中で、ああ言えばこう言うの海千山千の猛者を相手に会社としての成果を出せない私をミミズに例えて、ボスは指導してくれていたのでした。
ヘリコプタービューとは、平面しか見えていなくて向かうべき方向や壁の乗り越え方がわからなくなったときにはヘリコプターに乗って上空に上がれば周囲が俯瞰できて、自分がいる場所とどこに向かえばゴールに近づくのかが見えてくるという意味で、ミミズと叱られてからおおよそ10年後に中期経営計画の策定をサポートしていただいたコンサルタントの方から教わったものです。10年の歳月を経てようやくミミズの意味がわかった私でした。
その昔、ランズボローメイズという巨大迷路がパッと出てきて一瞬のうちに消え去りましたが、あれはまさにミミズ的疑似体験ををアミューズメントとして提供する施設だったのですが、人間にとって決して快適なものではないことから廃れるのも早かったのでしょうか?
さて、巷では中国産の食の安全性が大きな問題になっていますが、今朝の朝刊のコラムで極めて冷静な議論に触れることができました。今の日本の立ち位置とレベルから一方的に中国を語るのではなく、我々にも昭和があったことを思い出すべきという趣旨のお話しでした。昭和の高度成長期には多くの食害、公害がごく当たり前のように頻発していて、それらを糧にして一定の年月を経て社会的に進化してきたという歴史がわが国に限らずすべての国において共通なのは周知のとおりです。
中国は今年がオリンピックで再来年が万博ですから、昭和39年と昭和45年を今まさに二年間で走りぬけようとしているのです。時間軸と地理軸を大きく引っ張ってみて、一度ヘリコプタービューに立ってみると、今起こっている事件も少し違った見え方になるかもしれませんね。
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帝王学 |
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中国の「十八史略」の中で帝王学の三つの柱が語られています。
1.原理原則を教わる師をもつこと
2.直言してくれる部下をもつこと
3.よき幕賓(ばくひん)をもつこと
私が最初にこの三つの柱を教わったのは、新入社員の頃の直属のボスからでした。その方からは多くのビジネス上の原理原則を教わったので、文字通り彼は私に対して柱の1を実践しておられたのですが、振り返れば、当時の周辺の企業トップを見回して、それらができていないことを憂う意味で私に話をされたのだなあと、当時を思い出します。
もっとも困難なことは二つ目の柱の“直言できる部下”です。トップの姿勢もさることながら
部下の側の振舞い方にも細心の注意が必要で、十八史略でも“よき直言できる部下のありかた”について次のように教えられています。
第一にどんなことを言っても誤解がないこと、第二に全く私心がないこと、第三に信念に基づき反復連打すること。
当時の私にとっては、幕賓という言葉はうまく理解できませんでした。幕賓とはパーソナルアドバイザーのことで、トップのために役には立ちたいけれど、トップに仕える武士になるよりは素浪人を好むというタイプの人材のことを言うそうです。
いまこうして、様々な業界の様々なトップの方々と接していると、よき幕賓にならねばと、20年前のボスの教えをしみじみとありがたく思う次第です。
さて、次なる大阪府知事はブラウン管を通じて多くのメッセージを投げかけておられます。たしていかなる帝王学を披露してくれるのか。また、大阪府に直言できる部下がどれくらいいるのか、関西人としてはその行方を楽しみに見守りたいと思います。 |

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ルネッサンスの予感 |
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アパレルを科学する議論は久々になりますね。一般に科学に必要な要件は、「再現性」と「反証可能性」と申し上げましたが、アパレルを科学するにあたり、私は「再現性・継続性・継承性」と「検証可能性」と定義しています。
「再現性」とは文字通り、成功パターンやモデルは時と場所を変えてもいつでも再現することができるし、逆に失敗パターンは二度と繰り返さなくて済むということを担保するものです。
「継続性」とは、単なる思いつきで議論したり分析したり、やってみたり、やらなかったりではなく、いったん始めたらずっと継続してやり続けることで、あたかも大地に地層が堆積して いくかのように土台が積み上がっていき、強固な基盤ができていくという意味を表しています。
「継承性」とは、ブランドや事業、部門や世代を超えてノウハウが受け継がれて横にも縦にも展開できることを意味しています。
すっかりビジネス用語として定着した、“仮説〜検証のサイクル”という概念ですが、学問の世界においては常に批判的に検討を加えるという意味で反証と言いますが、ビジネスの世界では批判的にも受容的にも検討を重ねていくという意味で検証と表現したほうがフィットするように思います。
愚直に仮説〜検証のサイクルを回し続けるという体質は、前の会社で徹底的に教わりました。今にして思えば、最初はかなりぎこちないものでしたが、現在では完全に遺伝子として体に染み付いた昔の仲間達を見ていると、そのような結果を生み出すに至ったトップの強い思いと、とことんまでやり通すパワーには頭が下がります。
ところで、最後に本稿を起こすきっかけになった本日のエピソードをご紹介いたします。生産管理の分野でITソリューションを提供しておられる冨田女史と、彼女を介して出会った池田女史(ファッションギルドLLPの主宰者)を交えた三人でのお話です。
アパレルを科学するという視点で「継承性」を詳細に定義すると、“とかく暗黙知として限られた人間に土着しがちな業務のプロセスや、シーズンごとの結果から得られた次シーズン以降に引き継ぐべき知見を目に見える形にして誰でもわかるように引き継いでいく”と言うことができます。
池田さん、冨田さんの共通の志の出発点は、ファッション業界のモノづくりにおいて、我々が忘れかけている“より着やすい、より面白い、より進化した、よりこだわった洋服を作り続けようよ”という「DNA」をアパレル各社と携わる皆さん方に復興してもらいたいという強い想いであます。そしてその帰結点は、果たしてそういう時代が再来したときには、それに十分に応えうる技術と知識を伴った人材が川上の各企業において継承されていないという齟齬が発生するのは火を見るよりも明らかなので、当該LLPを立ち上げ、我々でできることを模索していこうというものでした。
もちろん、趣旨への全面的賛同とできうる限りのご協力を約してその場を後にしたのですが、専門分野は異なるものの「継承性」という共通のファンクションでアパレル業界に貢献できればと私自身の想いを改めて強くした次第です。
どうもアパレル業界にルネッサンスの嵐が吹き荒れる予感が…私だけでしょうか?
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三種の神器 |
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昭和30年ごろの消費生活におけるの三種の神器は「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」でした。昭和40年を過ぎて「車」「クーラー」「カラーテレビ」が三Cとして急速に普及しました。さらに現代の三種の神器は「デジカメ」「パソコン」「薄型テレビ」です。
さて、昨年の神戸大学経営学部主催のシンポジウムでの議論から引用いたします。 まずはマーケティングの大家でいらっしゃる石井淳蔵先生のお話から。
ウォルマートにはレジ前事業部(レジ前を統一的に管理)という部署があるそうです。米国のスーパーでは全体売上の5%(三人に一人が買う)を占めるレジ前売上ですが、日本で調べたところ、たったの25人に一人しかレジ前では買っていないことが判明。レジ前のほかにも定番売場に同じ商品が置かれているからです。
ウォルマートでは、レジ前に置いた商品は定番売場には置かないそうです。いろんな売場に置くと、どこで売れたかわからなくなって、責任の把握ができなくなるからという理由からです。今日の売上よりも基本的マネジメントができているかどうかを重視するという、いかにもアメリカ的なお話です。
さて、ここからは加護野先生節です。日本の経営の三種の神器を最初に言ったアベグレン。それは「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」でした。
彼は、16歳で海兵隊に入隊し、徹底的に日本語教育を受けたそうです。占領後も円滑に軍事活動を進めていくには日本語に堪能な兵士が必要ということで、アベグレンの来日最初の仕事は広島に行って原爆の効果測定をすることだったそうです。米軍は原爆を落とす予定の都市には普通の爆弾は一切落としておらず、純粋な原子爆弾の効果性を冷徹に分析したそうです。このようなサイエンティフィックなアメリカらしいやり方の先鋒の一人だった彼は、その後、日米をまたぐ経営学の研究者になっていくのでした。
アメリカは勝つために戦争を準備し、戦争を始めたが、日本は単に腹が立ったからはじめた。そこが当時の日米の決定的な違いであると。
かの国、米国も国際通貨としてのドルも凋落傾向が著しい昨今ですが、そんな彼らと中東でのくだらない喧嘩に付き合っている場合でしょうか?
今の米国からは太平洋戦争の頃のシャープさとクールさは感じられません。もし、彼らが当時の日本軍のレベルに陥っているとしたら…
政治家の方々には多くを期待することができませんので、せめて我々ビジネスマンが健全で冷静な言動を心がけようではありませんか。 |

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同期会 |
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同期っていいですね。
年初初日恒例の同期会に数年振りに参加してきました。もう20年近く続いている初出勤の日の恒例行事なのですが、その日に関西に居ることがなかったここ何年か、顔を出せずにいましたが、久しぶりに関西での仕事スタートだったので、日程を合わせることができました。
昭和59年入社であることから、ゴックン(59)会というのが我々同期の集まりの愛称ですが、今年は総勢29名の参加でした。 当時は会社が急成長している時期でしたので、同期入社が200人以上いたのですが、それでも大勢集まったものだと感激しました。
さすがにこの年齢になると、話題はもっぱら“息子のサッカーが”とか“娘のピアノが”というおっちゃん、おばちゃん会話に終始するのですが、(“息子のリリアン”にはちょっと驚きました)何年かぶりに会ってもスッと話題に入っていける同期って、とてもいいものだと再認識いたしました。残念ながら昨年亡くなってしまった常連の彼もここに来てるよ、なんて話にもなって、ちょっとホロリとも。
笑いあり、涙ありの素敵な一年のスタートを切ることができました。素晴らしい同期の仲間たちと、彼らとの出会いを提供してくれた会社に感謝!! |

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げに恐ろしきは業務上横領 |
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地方公務員の収賄の数が激増したとの報道。業界用語(アパレルではないですよ)では“サンズイ”と称します。汚職の文字が語源です。他に“マルボウ”“ワッパ”などたくさんありますが‥
ところで、たまに社会面で目にする「業務上横領」という言葉ですが、実はとても身近な犯罪なのです。何気なくプライベートの携帯を会社で充電しているあなた、立派な業務上横領罪です。業務上横領の構成要件は、“業務上占有する他人の物を横領”することです。もし、会社のボールペンを使って私用の記述をした場合は、会社の所有物であるところのボールペンのインクを業務上横領したことになってしまいます。
最近、こんな出来事がある会社で発生しました。大きな会社では当たり前になっている従業員の出張清算や小口経費清算の銀行口座振込みを総務や財務の窓口で現金で行っている中小の企業はまだまだたくさんあります。規模も大きくなり、安全面からも振り込み清算に仕組みを変えることにしたところ、社員から大ブーイングが発生いたしました。会社としては振り込み手数料を負担しないために振り込み元の同支店で口座を持つことを社員にお願いすることになるのですが、社員の言い分は以下のとおりでした。
当該銀行のATMが自分の生活圏にない場合は、小口の経費を下ろすためにわざわざの負担が増すことになる。それは、よしんば労力の増加なので受容できるとしても、時間外の利用をせざるを得なかった場合には、105円の手数料が発生してしまう。会社は社員に手数料の発生を強要するのかと。その銀行は、普通預金に10万円以上の残高があれば時間外のATM手数料が無料になるというサービスを行っているのですが、若い社員の言い分は、メインの口座以外に10万円も寝かせておく経済的負担はできないというものでした。
最終的には、会社の最寄のATMへの業務時間中の外出を各上司が柔軟に認めるようにというお達しで解決したのですが、皆さんはこのお話、どう思われますか?会社が社会通念上許される範囲内で経済合理性と安全性を追求した仕組みとして、法律的にも常識的にも何の問題もありません。社員も、毎日お昼休みがあって、その間、外食したりお弁当を買いに行っているわけですから、そのなかでやりくりするのが従業員の正しい姿です。
今回のような主張を行う社員は、勤務時間中に無駄なおしゃべりもしてはなりませんし、まして法定の休息時間以外にタバコ部屋で一服など、もってのほかです。業務上横領には問われませんが、会社から時間を盗んでいることになりますよ。
でも、タバコ部屋でのミニミーティングがいろんなネタの創発の場になっているという話は複数の会社で耳にします。いずれかの機会にタバコ部屋の功罪についても議論してみたいと思います。
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個人情報保護法 |
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先日、「組織文化」に関するプロジェクトをご一緒させていただいている大学の先生方お二人と打ち合わせを兼ねた忘年の宴を催しました。
それぞれ、関西と中部の公立大学で経営学を教えておられるのですが、実は共通の恩師が加護野忠男先生で、研究テーマは組織論というお二人です。お一方とは、大学院時代にの講義で席を並べたご縁もあり、今回のようにプロジェクトをご一緒させていただいてりしております。
12年前の当時は、社会人対象のMBAコースの黎明期(私が神戸大学の第5期生になります)で、私の代は実験的に一年コースが設けられていました。最初の半年で、夜や土日だけでなく平日の昼間の講義でも単位を取得し、後半で一気に修士論文を仕上げるという強行スケジュールでした。おかげで昼間の講義でプロパーの院生と机を並べることができ、今でも親交のある先生方が多数いらっしゃるので、私にとっては素晴らしい財産になっています。
その席でお二人が口を揃えてぼやかれてたのが、大学における行き過ぎた個人情報保護法の解釈と運用でした。大学ではゼミ生や院生の受け入れの際に面接試験が行われるのですが、同法のおかげで面接が全くその体をなさなくなったというぼやきです。
お酒の席ゆえに、多少面白おかしくするために誇張はされていたでしょうが、なんでも面接時に本人の趣味嗜好はもちろん、家族関係や家族や友人との印象に残った出来事や思い出などを一切聞いてはならないというお達しが出されているとの由。結果、その人の人となりは全く窺い知ることができず、ペーパーテストの結果のみで選考を行わざるを得ないのが実情だそうです。本人が勝手にペラペラしゃべればラッキーなのですが、重要な意味情報につながる話は、ほとんど何も聞けないで終わるそうです。
法律の解釈と運用には高いレベルの理解力と応用力が求められます。その一方で、形式的に受け止めて形式的に運用することはいとも簡単で、今回の例は典型的な形式解釈、形式運用の結果です。立法の趣旨としてどのような構成要件が想定されているのかを概念的にもしっかりと理解し、守られるべき法益は何なのかを的確に掌握しなければ、実質的理解と正しい運用はおぼつきません。
ことに個人情報保護法は、社会面を賑わす様々な事例が発生し続けていることから、各関係者が必要以上にデリケートになった挙句、行き過ぎた形式運用に陥っているケースがままある法律の代表例です。ニュースで見聞きする個人情報漏えい事案には弁解の余地はありませんが、そもそも本法の趣旨は、“本来の目的と用途以外での個人の情報の利用、転用は本人の承諾がない限り許されない”というものです。
それなのに、面接試験で“個人にかかわることは何も聞くことができない”という縛りとして現場が萎縮しているとすれば、お達しを出す側の理解力と運用力に?を付けざるを得ません。
やっかいなのは、理解力がないのではなく、責任能力を果たしたくないという意思が働いている場合も多々あるので注意が必要である点です。形式的には問題が起こりえないようなお達しを出すことで自分の仕事が終わって責任が回避できていることにしたい人々、すなわちお役所仕事で終わりたい人々がたくさんいるという点です。彼らは、事務手続きの委任は受けているけれども、結果、効果を問われる業務を請け負った覚えがないというスタンスなのです。
もっとやっかいなことは、平気でお役所仕事をしている民間企業の社員もたくさん見受けられるということです。彼らの存在のおかけで、法改正や制度的枠組みの変更の都度、おいしい思いをしているITベンダーやコンサルタントもたくさんいらっしゃるようです。経営者の方々、敵は社内にも社外にもいるので要注意ですぞ。頑張れ、文部科学省!!
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アパレル法務 |
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久々に法務の話題になりましたので、しばらく法務マターをアップしてみます。
時は1984年4月、新入社員として入社して三週間程度で法務部門に異動になったのですが、法務機能の設置と充実を推進していた当時のボスはこんな風に言っていました。(現代では社会的にあまりふさわしくない言い回しも含まれていますが、84年当時のお話ということでご容赦ください)
“北村君な、アパレルはとても女性的な業界や。後先あまり考えることなく、やりたいことを
パッとやってしまう。そのくせ、うまくいかなくなるとヒステリックになるし、笑顔で誤魔化そうとする、そういう体質の業界や”
“それと、会社もこれだけ大きくなってくると(私の入社当時で1300億円の売上規模でした)、だんだんとストライクゾーンが狭くなってくる。昨日まではストライクと判定されていた同じコースが、今日はボールと判定されてしまう”
その二つの意味で、いままさに当社には法務機能の充実が求められている、このままでは会社の屋台骨が揺さぶられかねない と教えられました。
さらにボスは、アパレルに必要な法務の分野を次のように三つに分けて定義されました。
1)商標問題(その後「知的所有権」〜「知的財産権」と再定義)
2)契約問題(国内の販売先や製造委託先との基本契約やライセンスやデザイナー契約など)
3)消費者問題(当時は消費者クレームへの適切な対応という定義、現代ではCSRという言葉でくくられる分野)
80年代半ばのアパレル企業において、このような法務ドメインを規定して専門部隊を有していたのは他にあまり例がなかったのではないかと思われます。
入社当初は中堅ブランドの生産コントローラーに配属されて、“よしっ、アパレルの世界、全然わからんけど、モノ作り頑張るぞ”というモチベーションから、ほんの一ヶ月弱の期間で、“なんや、もっとようわからんけど、何やら大変な仕事のようだ…”ということで私の法務業務はスタートしたのです。
そのときの苦労話など、追々ご紹介していければと思っているのですが、法務の仕事を始めてすぐに感じたことは、“なんで俺はアパレル企業に入って、こんな仕事をしているんだろう…?”という釈然としない思いでした。華やかかりし(私にはそう見えた)営業や、モノに携わっている生産の同期の連中の動きや話を羨ましく思うことも多々ありました。
ところが、今になって振り返ってみると、社会人のスタートの数年間をそのボスの下で法務業務に関わることができたことが、その後の私のビジネスの礎になっていることを鑑みると、会社やボスや迷惑をかけっ放しだった周囲の皆さんには感謝の言葉もありません。。 |

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委任と請負 |
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先日、“まっこと加護野先生に失礼な”とご紹介したファーストフードの会社ですが、日経ビジネスでCEOが次のように語っておられました。
日ごろから、このような事態に備えて社長へのホットラインを敷いて、密告ではなく告発により情報が上がってくることを期待し、「手段があればよし。」としてしまった…と。
民法上、取締役は株主と委任契約を結んでいることになるので、社会通念上合理的な期待のもとに一定の手段を講じれば委任契約上の責任は果たしていることになります。つまり、かのCEOは最少限の民法上の委任契約の要件を満たしたことで、よしとしてしまっていた訳です。
ちなみに、委任契約とは一定のプロセスを業務委託するもので結果責任は問われません。一方で請負契約は結果を出すことが求められている契約形態です。たとえば、工務店が委任契約で建築を引き受けて、予定通りの100日間の労務は提供したけど建物はできませんでした、では許されませんよね。
経営者は、一所懸命頑張ったけど利益は出せませんでしたということで、委任契約上の責任を問われることはありません。ただし、辞任を迫られたり、商法の手続きに従って解任されたり、次回選任されないことが起こり得るのです。
また、昨今は商法の規定が改正されて、商法上の取締役の責務は強化される一方です。会社レベルでもコンプライアンスが強く求められ、経営者は“俺、委任契約だから…”とは言えない時代になりました。このニュアンスは、サラリーマン経営者にしかないもので、オーナー経営者はそんな発想はかけらもないはずです。
このように、社会的背景や法律的背景によって、経営者が求められる責任の範囲や重さは複層しています。皆さんが当たり前と思っている常識と、社会的に求められているものにギャップがあると不幸な幕引きになりかねません。
自分の理念や信念とは別に、法律(社会のある種の鏡のようなモノサシです)上のフレームワークを理解しておくことがいかに大切か、理解を深めていただくことを祈念いたします。
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アイメッセージの大切さ |
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“急げども、散れば悲しき吉野の桜、もう一歩前へ”
本日お邪魔したクライアントのトイレでの張り紙の一句です。
女性の皆様にはあまり馴染みが薄いかもしれませんが、男性の立ち姿の前には様々なPOPが貼られています。
“今日もきれいに使っていただいて、ありがとうございます”
これは、思わず仕切りなおしをせざるを得ない一文ですよね。一方で、“こぼすな”“散らすな”と言われると、放っといてくれと言わんばかりに短棒を振り回してしまうのは私だけでしょうか?
広義では人事の領域、狭義では臨床心理学の分野にアイメッセージとユーメッセージがあるのをご存知ですか?アイメッセージとは“私は…と思う、感じる”という情報発信の仕方で、ユーメッセージは“お前は…だ”という情報発信のことを指します。
思わずしょうもない振る舞いに駆り立てられかねないのはユーメッセージの方で、振り回した後にちょっと反省モードというのは、みなさん心当たりありますよね。
一般に、アイメッセージは相手方の受容性を喚起しやすいという特徴があり、ユーメッセージは相手を追い込んで閉じさせてしまう傾向があると言われています。
仲間や部下とのコミュニケーションでは、アイメッセージが有効な場合が多いと言われる所以はそこにあります。
学生時代に住宅地図の作成のバイトをしていたときのこと、付き合っていた彼女を動員してヘルプをお願いして“このエリアからここまでをお願いできない?”とごく普通に言い回した私でしたが、後日その言い方が心地よかったと現在に至るまで25年を超える年月を共有するに至りました。
おそらく、私の意思を押し付けたのではなく、彼女の主体性を喚起、尊重することができたことが功を奏したのであろうと、後知恵では分析できるのですが、当時はただの天然の私でした。
管理職や上司という縛りの中で、本来、天然色としていい色をお持ちの皆さんが、異なる色で異なる権威を撒き散らしてはいませんか?
アイメッセージは、言い方を間違えると単なる自己主張、独りよがりになりかねないのですが、相手のスイッチを入れてエネルギーをチャージするとても大切な魔法の杖ですよ。
ところで、冒頭の一句は、前半はうまく韻を踏んでいるのですが、最後の収まりがよくありません。みんなで名句を完成させませんか? |

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モーニングコールの不思議 |
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前職時代も含めて、拠点の神戸と東京とを毎週往復するビジネスパターンにはまって、かれこれ10数年になります。出張時の移動手段に関する話題もいずれアップしたいと思っていますが、本日はモーニングコールについて一言。
出張族の皆さんは、何らかの根拠をもって常宿を決めておられることと思います。毎回、ネットで最安値をゲットしておられる猛者もいらっしゃると思いますが…。私は、ここ数年、四谷三丁目のホテルを使い続けています。理由の詳細は今日の議論の本質ではないので割
愛いたします。
そのホテルのモーニングコールの設定は、部屋の電話で80からスタートして行います。ちなみに解除は81を頭にします。たまに都内でも違うホテルに泊まったり、地方に出張したりすると頭が51だったりします。そこは、解除の頭が50でした。
電話のダイヤルの配置は全て同じで、国際的にもデファクトスタンダード化しており、私たちはそのおかげで携帯を使うときも海外に行ったときも大きな戸惑いはありません。
なのに、それを使ったソフトが各社まちまちであることから、ホテルが変わる度にモーニングコールの設定でストレスを感じるのは私だけでしょうか?
キーの配列で言うと、タイプライターのそれがあります。毎日数時間お世話になっているPCのキーも英文字はタイプライターの配列を踏襲しています。タイプライターのキーの配列は、英語で出現頻度の高いアルファベットが打ちやすい指の配列に呼応しているのをご存知でしたか?ということは、日本語をローマ字で打っている私たち日本人にとっては人間工学的には決して合理的な配列ではないということです。日本人である我々は必要以上のストレスを指に与えながら日々ビジネスに励んでいる訳です。
ところで、電卓のキー配列はTELのそれとは真逆ですよね。経理のベテランの方が目にも止まらぬ速さで電卓をたたく姿は、皆さんも一度はご覧になられたご経験があるのではないかと思います。その方々は、電卓と電話をどのように使い分けておられるのでしょうね?私たちより、とってもストレスを感じているかもしれませんね。
ハード上のある種の必然性と合理性を、活かすも殺すもソフト次第です。モーニングコールのソフトの開発者の皆様方へモノ申します。少なくとも、0と1の法則性を、望むべくは頭の数字二桁をデファクト化していただけると、私たちユーザーはとってもストレスフリーになります。
アパレル業界においてソフトの開発に携わっている専門職諸氏も思い当たる節はありませんか? |

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まっこと失礼な某ファーストフード |
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日曜日の久々の加護野節の興奮も冷めやらぬ本日、晴海のホテルからブログをアップしています。
とある自動車会社の中堅幹部研修をご一緒させていただいている最中なのですが、そのディスカッションの中で思わず引用した議論を皆さんとも共有したいと指を走らせています。
サプライチェーンの垂直統合という話題になったときに、加護野先生から教えられたとてもわかりやすいたとえ話を引用させていただきました。
在庫ロスを極小化することができる究極の業態は何かという話しなのですが、当時、加護野先生は以下のようなたとえ話(メタファー)でそのエッセンスを教えてくれました。
“みんな、在庫ロスを極小化している究極の業態を知っているか?それは、街のケーキ屋さんだ。街のケーキ屋さんは、その日に必要なケーキだけを、必要な種類と量、売場のすぐ後ろで作っているよね。つまり、限りなく短くて細いパイプを持つことがもっとも合理的なサプライチェーンの姿だ。だって、店を閉めて、次の日の準備をするにあたって廃棄するパイプの中身がもっとも少なくて済むということが、在庫ロスの極小化だからね、と。”(メタファーというのは、経営学のみならず様々な場面で重要なコミュニケーション上のスキルなので、別の場所で深く議論したいと思っています)
もう、十数年前の話しなのですが、てもわかり易く本質を捉えた議論に唸らされたのが、つい昨日の様に思い出されます。
して、現実はというと…
○○○シェイクのパイプに残っている商品を一ヶ月に一回しか清掃しないことにもビックリしたのですが、(○○館製薬はそれはそれですばらしいCM訴求をしていますよね)さらにそれをそのまま再利用しているとは…
まっとこ、加護野先生のサプライチェーンロジックに失礼なのはこのファーストフードチェーンです。経営トップは、とても優秀な方との印象を受けていたのですが、しょうもない詐欺的営業に引っかかって、それに輪をかけてこの不祥事…
割引クーポンを目当てに株主にもなって小さな幸せを噛みしめている家内と子供たちの笑顔を見て私自身も幸せになっていたのですが、いっぺんにそれら全てを壊されてしまいました。
信頼は一日にして成りませんが、壊れるのは一瞬ですね。 |

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地場産業から土着産業へ |
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今日は、神戸大学経営学部主催のシンポジウムに参加してきました。先生方の変わらない弁舌に触れることはもとより、同窓生や先輩、後輩に会えることも大きな楽しみのひとつで、日曜日が潰れることに何のストレスも感じさせないのが出身学部主催の各種イベントです。
さて、本日は「企業価値と神戸」“神戸企業の実例に学ぶ”というテーマで、神戸企業の代表として、ロックフィールドの岩田社長、シスメックスの家次社長、フェリシモの矢崎社長をお迎えしての議論が展開されました。
パネルディスカッションでは、加護野忠男先生がコーディネーターを務められ、上記の経営者諸氏にマーケティングの石井淳蔵先生を加えて、とてもエキサイティングな議論が展開されました。
その中から本稿では加護野忠男先生の基調講演のエッセンスをご紹介いたします。先生のお話を私が勝手にサマった内容ですので、論文体をご容赦いただきたいことと、文責は全て私に帰することを予めお断りしておきます。
企業は取引のネットワークに組み込まれて生かされている。取引のネットワークとは人々や企業の協働を支えるルールを意味する。したがって、企業が取り組む問題解決やソリューションは、それらのネットワークを自らつくりかえることと言い換えることもできる。
そのようなネットワークの要素のひとつに、「地の利」がある。地場産業という呼び方もあるが、今日お集まりの皆さんには、ぜひとも「土着産業」を目指して欲しい。
企業のビジネスシステムは、当該企業が属する地域の慣行や文化によって支えられている側面がある。京都のベンチャー企業や大阪の金型産業、神戸の清酒メーカー、ケーキ屋、菓子屋などはその典型である。地域で起こるイノベーション(ソリューション)も、その地域の文化や歴史と不可分のものがある。
京都には、よそ者が地元の人と同じことをやっては受け入れられない文化がある。だからこそイノベーションが起こる。オムロンは熊本、村田製作所は福井、京セラは鹿児島からやって来た。それぞれ京都でイノベーティブな分野を開拓した代表企業である。
片や大阪には、既存の先行地元企業を押しのけてでもという文化がある。して神戸はというと、どちらかというと京都に近い文化がある。たとえば、神戸には多くの有名で美味しいケーキ屋や洋菓子屋が多数あるが、これらは神戸の地の利に育てられた業界ということができる。
神戸の地の利とは、第一に、舌が肥えるには三代が必要と言われるように、そういう金持ちの顧客に恵まれていること、第二に、職人が育つ環境があることの二点である。神戸の洋菓子職人には、自分が修行した店と同じ商品は絶対に作らない、近くに店を出さないという不文律がある。万一、それを破る人や店が現れたとしても、顧客がそれを淘汰するメカニズムが働く。
もともと神戸は商業から始まった都市である。商業には様々なビジネスシステムのゆりかご機能がある。棲み分け型文化と職人の発掘と育成の文化が神戸ならではのビジネスのゆりかごになっていると言うことができる。
どこかはわかりませんが、いずれかの地域(地方)で地場産業に貢献することを私のビジネス人生の仕上げにしたいと漠然と思っていた私ですが、土着産業の発掘と育成に寄与するということで、まだまだ悩ましいビジネス人生の仕上げ目標の明確化が一歩前進した一日でした。
いつものことですが、加護野節からは独特の元気と知識を頂戴することができます。さらに、今日のシンポジウムは神戸大学経営学部を舞台に加護野先生と石井先生が揃い踏む最後の機会でした。石井先生は別の私学に転出されるからです。最後は、キャリア・ミドル・モチベーションの大御所である金井尋宏先生の質問(金井先生の場合は、質問者として質問されるのですが、いつもご自信の持論のお披露目になってしまいます(笑))も加わって、神戸大学経営学部の一時代の黄金トリオの、まさにゴールデンディスカッションで締めくくられました。
現役時代も、お三方には多くの事を教えられましたが、卒業後もこのような形でさまざまな刺激と知識を与え続けていただける諸先生に感謝の言葉もありません。
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科学って何? |
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科学に必要な要件は次の二つです。
1)再現性があること
2)反証可能性が示されていること
1)は、同じ条件下では同じ現象が相違なく繰り返されるという意味で、2)は、“それはおかしいのでは?”、と突っ込みを入れたい人に対して、反対証明ができるプロセスや条件が示されている必要があるという意味です。
時々、そうではない現象や結果が起こるという状況や、つべこべ言わずに結論はこれという態度は科学とは認められないということです。
アパレル業界の業務の場面においては、前者の状況は日常茶飯事ですし、後者のような態度をとる上長者の存在は枚挙に暇がありません。
であれば、アパレルを取り巻く業務、とりわけMDを科学にしてやろうと強く思ったのでした。
ちょうどそのころ京都で勢いのあったアパレル企業が全国紙の全面広告でまさに、“アパレルを科学する”と謳い、“われわれはアメリカンフットボール型の合理性とチームワークに基づく業務に邁進する”とぶち上げました。
その会社は、残念ながら数年前に自己破産宣告をするにいたりました。掛け声は十二分だったのですが、実際は科学することができなかったのでしょう。
他社が公の場で宣言してしまったので、深く静かにアパレルを科学することへの挑戦を始めたのでした。 |
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