
|
加護野先生還暦記念コンファレンス |
 |
|
恩師の加護野忠男先生の還暦記念コンファレンスが23日24日の二日間、神戸大学にて開催されました。
社会人院生OBも含めて総勢90名強が集まり、19本の研究発表に加えて三品和広先生と金井壽宏先生の特別講演と加護野先生による記念講演がありました。
私が机を並べさせていただいた頃からずっと同じテーマを掘り下げておられる研究もたくさんあり、感慨深いものがありました。
そんなコンファレンスの中で、次のような趣旨の議論がありました。「通常の学会における発表は、一定の完成度があって研究成果が明白な発表しか許されないのが通例だが、今回のように、ほんのアイディアベースの段階だったり、ここで行き詰って、こう迷っているという発表もすることができて、それに対して様々な批判や意見が交わされると、学会とは全く異なる刺激とエネルギーに満ち溢れている…と。」
私も、いくつかの学会に出席させていただいた経験もありますが、エキサイティングで面白い議論というよりは、閉鎖的な価値観の中で取り交わされる儀式的雰囲気を少なからず感じていましたので、全くそのと通りであると共感させられました。
さて、皆さんは“会議”という言葉の意味を考えたことがおありでしょうか?“(人々が)会して議する”というのが語源です。しかしながら、「会して議せず、議して決せず、決するも行動せず…」という嘆きがあるように、なかなか会議は成果につながっていないのが多くの現状ではないでしょうか。
何も決定するばかりが会議ではありません。今回のカンファレンスのように、発散しながら収斂のきっかけをつかむような議論もあれば、ブレストに代表されるように発散、創発を促す場もあるでしょう。
つまり、情報共有などど称して漫然と集まるのではなく、
1)発散、創発を意図する開く会議なのか
2)発散させながら収斂のきっかけをつかむ開いて閉じるきっかけをつかむ会議なのか
3)結論を導く閉じる会議なのか
その趣旨をはっきりとさせた上で議事進行にとりかかるのが要諦ではないかと考えます。
目には見えにくいですが、会議の進め方の巧拙は組織にとってとても重要なインフラと考えます。コンファレンスの内容から得られた知見については追ってアップさせていただきます。 |

|
14.7ozの快感 |
 |
|
デニムのヴィンテージ生地を世に出している岡山県は児島のテキスタイル企業があります。
ラルフローレンやシャネルのデニムの生地も供給してきている同社ですが、先日、ヴィトンの本社の人々がわざわざ訪ねて来られたそうです。
同社とお付き合いを始めて約一年が経過するのですが、ジーンズを四本とポロシャツ二枚とシャツ一枚とジャケット一枚を愛用しています。
同社の専務曰く、「デニムは年中14.7ozでしょう。」と。それまでの私は、ジーンズも夏物と冬物とを使い分けていました。オンスの詳細は分かっていなかったのですが、夏には薄手の生地のジーンズを、当然冬には厚手の生地をそれぞれ二〜三本ずつ分けて持っていたのです。
ところが、マニアは一年間を14.7ozで穿き通すとのこと。とはいえ、その三本のうち二本が14.7ozで残りの一本は14ozなので、猛暑のこの夏は14ozに集中すると思いきや、実は14.7ozの生地のジーンズが真夏の暑い盛りに結構快適なのです。これには驚かされました。
別にお付き合いしている古着の会社さんは、10ozとか12ozのジーンズを企画されるのですが、それはそれでファッションとしてはありでして。でも14.7ozの重厚な生地間が真夏でも快感をもたらすとは、新しい発見でした。(寒暖で申し上げると、決して快適ではありません)
さて、当の児島のジーンズメーカーさんには、究極の15.7ozのジーンズがあります。この秋、心して一本入手する予定にしております。ゴワゴワでどうやって穿くの?という第一印象の商品を、自分の体に合わせて手懐けていく過程が、マニアならではの道だとのこと。
同じ専務の語録ですが、ジーンズは経年変化を楽しむことが究極の所有価値だと。そうなると、予めダメージが施された昨今の商品はその道には外れていることになります。ちなみに同社にはダメージ系の加工を施した商品は一切ありません。
三本の内訳は、インディゴ機械染めのノーマルタイプと、インディゴ手染めのちょっとプレミアムタイプと、本藍20回枷染め手染めのプレミアムタイプの三種類です。もっともお気に入りは最後のやつであることは言うまでもありません。
35度を優に超える街中に颯爽と14.7ozで立ち向かうその姿は、文字通り“出陣”に他なりません。実はその後15.7ozの新作をワードローブに加えたのですが、流石に涼風が吹かないとデビューする気にはなれません。(笑) |

|
部分最適と全体最適 |
 |
|
個々の要素にとっての最適な状態の足し算は決して全体の最適状態を担保することはできないし、その逆に全体としての最適状況をそれを構成する各要素にとっても最適な状況に分割することは困難であるというパラドクスを意味します。
私にとって古くは、社会人大学院の先輩である保田氏にMBAチャレンジのご相談に伺った際に、そのときには“組織”に関心が高かったので、「個人個人のベストである部分最適の延長上には会社としての全体最適は描きにくく、会社としてのベストの状態を全社員個人個人にとってもベストな状態に配分することはとても困難であるが、よりよい人事制度の模索を通じてその矛盾に挑戦したい…。」という趣旨の思いをお話させていただく機会がありました。
大手外資系製薬会社の人事部でもあり、MBAでも人事系を専攻しておられた同氏から、実は「若いくせに(確か私は31歳でした)、深く考えているやっちゃ。」と最初に言われたのですが、その後の議論の展開で、「アホか」と撃沈させられたのは“ほんまに大丈夫なん”の稿で申し上げたとおりです。
さて、本日、ある経営トップとの議論の中で以下のようなお話しが出てまいりました。
次期情報システムにおいては、現場に対して、現状よりも粗利と経費のリアルな全体像を知らせた上で、よりコントロールの範囲を広くして、会社としての最終着地に近い数字を見せながら、精度の高い意思決定とオペレーションを期待したいというコンセプトを私がお話したことに対するレスポンスでした。
業務のパフォーマンスの全部を見せてしまうと、それを理解して身に付けた社員は会社の外に出てしまう。
細切れにしか見せなかったら、そのリスクは回避することができる。全部を見せていた昔には、強い個人商店主の集まりにはなることができたが、会社が組織として成長することはなかった。部分的視野と責任しか与えていない現在の方が、会社は組織的にも全体規模的にも進化している。と。
まさに、部分最適と全体最適のパラドクスが、現実の場面で発生していたのです。
ロジカルシンキングでは、全体をMECEに分解することでロジカルに次のステップに進むことができると説くのですが、数字だけで表すことができる現象や相対的に戦術的アクションにはそのまま当てはまるのですが、戦略マターや人間がからんでくると必ずしもロジカルではなくなるところが経営の妙味ですね。
そう言えば私達も、自分の人格的全体像では説明のつかない個々の行動パターンや、しょうもない発想や出来事を要素として持ちながら、騙し騙し生きていますよね。 |

|
教え教えられ |
 |
|
先週は、プレゼンテーションのスキルを教える側だったのですが、昨日、あるコンペティションでプレゼンテーションを行って審査される側に回りました。
先週の講義の休憩時間に、受講生の方々と雑談で、「前で教えている私も、来週にはあるところでプレゼンを行って、その内容と一挙一動を試されるのですよ。」とお話しすると、「へぇー!!」がいくつも飛び交っていました。
時間は質疑応答も含めて30分強とそれほど長くはなかったのですが、一所懸命の30分が終わった時には汗が噴出していました。
部長職お二人をはじめとして10名程度の方々を前にしてのプレゼンでしたが、ことのほか緊張したのか、はたまた力が入ったのか、前述のような大汗という次第でした。
「フレームワークやロジックなどのきれいごとだけでは現場は回らないと思うが…」という鋭い突込みに対して、「それらの基本があった上で、最終的に勝負になるのは人間力で…。従って、論理を振り回すだけでなく皆さんが人間力を高めたり発揮しやすくなるような働きかけをさせていただきたい…」という回答をしたのですが、それがどのように受け止められたか。
“現場力”とか“人間力”という言葉をよく耳にしますが、それが重要なパフォーマンスの源泉であることはよくわかっているけれど、どこをどう操作すればそれがうまく顕在化するのかのメカニズムはサブシステムとしての行動科学や心理学は学問として確立していますが、諸説様々で、はっきりこれという決め手がないのが実情のようです。
そこで私が行うアプローチは、空気を読んで、その人の人となりを観察、理解して、その人を受け入れて、その上でその人の自主性と長所を引っ張り出すというプロセスなのですが、その過程の勘所をうまく形式知として表現するには、まだまだ私の修行が及ばないのか、それ以上噛み砕いて皆さんにお伝えすることができません。
是非とも本プロジェクトをご一緒させていただいて、様々な教えを参画者の方々から頂戴して、そして皆さんにもっと具体的に当該プロセスのご説明ができるようになることを祈念して…。
東京が雷雨で神戸発の飛行機が一時間ほど遅れて飛ぶということで、空港のロビーにて一筆啓上いたしました。 |

|
“お仙”の筆者 |
 |
|
昨日、本日と通信系大手企業様の選択型研修にてロジカルシンキングとプレゼンテーションをの研修をご一緒させていただきました。
その際に引用させていただいたのですが、正確に当事者を再現できなかったお話しをこの場を借りてフォローさせていただきます。
「限られた時間と紙面の制約の中でプレゼン資料の情報を最小限のシンプルなものにするのが難しい…」という受講生の方の感想に対して、“世界一短い手紙”と 日本の武士が書いた“簡潔な手紙”をご紹介いたしました。
それぞれ筆者が思い出せなかったのですが、「?」と「!」のやりとりは、フランスのビクトル・ユーゴーが“ああ無情”を出版したときの出版社とのやり取りの手紙です。
また後者は徳川家康の家臣、本田作左衛門重次の「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ。」です。
背景とか文脈を共有している人々の間では、簡略化された記号や言葉でとても深い意味を伝達しあうことができるようになるという趣旨の解説をして差し上げたのですが、“記号論”という立派な経営学の分野があるとともに、今の“ギャル文字”にも通じるものがある限られたコミュニティにおける重要な現象、ツールであります。
これまで、多くの同コンテンツでの研修をやらせていただきましたが、自分自身のテンションと受講生の皆さんの乗り具合はトップ3に入るレベルの濃い二日間でした。
積極的に手を挙げてくれるのだけれども実際に発表するのはその人が指名した他の人という積極的他薦文化の同社。入社三年目の同期のMさん、Oさん、Iさんが作ってくれた活気。100`マラソンにも果敢にチャレンジされる同世代のMさん。大阪南港の研修施設に始めて来られたとのことで、思わずジョギングシューズとウェアを現地調達して街灯の乏しい港を走り回られたとか。また、休憩時間に寸暇を惜しんで営業上のTELをしまくっておられたNさん。
他にも印象に残る人々はたくさんいらっしゃった(ほぼ全員)のですが、素晴らしい二日間をありがとうございました。この二日間がみなさんのビジネスキャリアの何某かの礎になれば、私もご一緒させていただいた甲斐があります。
三年目の同期の皆さんも含めて、何かございましたら小さな勉強会(飲み会)はウェルカムですので、是非お声がけいただければ幸いに存じます。
9月には同じクライアント様の二年次社員全員を対象にした合宿研修が控えています、今からとても楽しみにしています。 |

|
“しゃべる”の功罪 |
 |
|
「この品番、シーズントータルでなんぼしゃべったの?」
ファッションの生産現場でよく耳にする表現です。
以前、店頭における販売行為をプロセスで分解して、それぞれが法律上のどのような契約のステップに相当するのかをお話したことがありました。今回は同様の趣旨のお話の生産編が入り口の議論です。
前の会社で、上場準備の一環として職務権限規程の整備に携わる機会がありました。上場レベルの会社でなくても、いわゆる社内稟議に関する簡単なルールはあったりするのですが、ファッション業界に決定的に事前稟議が欠けているジャンルがありました。生産現場における原材料と本生産の発注です。
職務権限規程や稟議規程では、たいてい経費に関する支出に関しては細かく項目が明記されていて、それが、20万円、100万円、1000万円、5000万円、一億超などと金額も定義されています。それぞれ、課長、部長、事業部長、本部長、社長、取締役会というように各階層にもきっちりと対応しています。
初めて課長という職責を拝命したときに、自分のハンコで支出できる経費の上限が20万円であることに唖然とした記憶があります。
その一方で、各ブランドの生産現場では、何反もの生地が、何千枚もの製品発注がTEL一本、もしくはFAX一枚(今だと、メール一通)で担当者レベルで“しゃべられ”ていた(る?)のです。
片方で経費に関しては完璧なルールとその運用が行われていながら、千万単位の在庫に対する投資は結構ラフに行われているアンバランスさがとても印象的でした。
さて、“しゃべる”というのは契約のステップで言うと、契約の誘引、申し込みに相当します。印紙税を節約するために請書は発行しないケースが多いので、その“しゃべり”を相手方が同意したのか、聞いただけなのか曖昧なまま、モノ作りは進行していきます。すなわち契約が成立したかどうかよくわからないまま現実のプロセスは動いていくのです。
後になって、相手方が「独り言だと思ったので、聞き流した。」と言ってしまえば、契約は成立していなかったことになります。合意を称する言葉のやりとりとそのエビデンスがないと後々ややこしいことになりかねません。
生産の現場では歩積みをして原料リスクをヘッジしたり、それぞれ決算期の異なる会社間の取引の場合は利益の状況を睨みながら「今回はちょっとウチで仕切っておくから、来期返して。」などの浅知恵が横行していました。
どうしても、曖昧なままとりあえず前に進んで、状況に応じてその場で対応しようと考えがちなわが国のビジネスマインド(特にアパレルには強烈に存在する)ですが、曖昧さと例外を許さず決める、断言するというリスクを張り、ポリシーを貫くというのはグローバルなビジネスマインドとして極めて現代的なセンスです。
自社のブランドを大切に育てようとしておられるバングラデシュ人の社長さんが、「ウチの商品は店頭で絶対にマークダウンして売ってもらいたくないし、取引先や販売時期によって掛け率を変えることもしない。
たとえそれが原因で新規の口座が増えるスピードが落ちても、既存の大口の取引先でドロップする相手が出てきても、それは甘んじて受け入れる。」と言い切られました。
諸先輩が築き上げたブランドや仕組みの上に乗っかってSPAを日々一所懸命回しておられる同輩の諸氏の方々。ブランドビジネスに携わっているという気概とプライドがいかほどお持ちですか? |

|
東北自動車道快走の巻 |
 |
|
地震に遭遇するのが嫌で、東京の大学や企業に進む決心がつかなかった私が、神戸で大震災に遭遇したのは私の人生のギャグですが、昨年末から東北の盛岡にお邪魔するようになってから三回目の地震に遭遇しました。
本日はRockyと一緒に店舗レイアウトの議論をするお仕事で、7:36東京発の“はやて3号”に乗る予定でした。当日の未明12:36に揺れは発生したのですが、前日は23時ごろ床に就いた私は夢の中にいました。
変な夢に起こされたのが、起床予定より1時間以上早い4時半頃でした。起きて、PCでも開けようと思ってつけたTVからは震度6弱の地震が東北を襲ったと…。
おいおい、新幹線走るんか?と思いきや、案の定、仙台までは行くけれど、その先は様子見とのこと。とりあえずRockyにメールを打って、東京駅までは行ってみようと。
彼も心得たもので、予定時刻より30分ほど早めに東京駅に着いており、一本早い6:56発のはやて1号で仙台までの足は確保。後のことは仙台に着いてから考えようと。
ところが、仙台以降の復旧は午後以降になるとのことで、在来線で行くか、高速バスを使うか、タクシーを捕まえるかの選択肢。在来線もバスも3時間ほど要するとのことで、タクシーに賭けることに。
乗り場に行くと、車列から離れた個人タクシーのセルシオを見つけたRocky。ナンバーを見ると、“・・・1” こいつは只者ではないと、私が早速交渉に。メーターで87000円+高速代という定価を6万円ポッキリで握って、いざ東北自動車道へ。
運転手さんは、「飛ばすのでちょっと待って、と車外に出て屋上の行灯をとりはずし見事普通車に変身。盛岡へとまっしぐらに疾走したのでした。
道中での会話。運転手さんは三歳のときにご両親が離婚されて、祖父母に育てられたと。娘さんが私立の名門高校に合格したときにお勤め先の会社が万歳して、奥様がパニクった際に、「原資はある。(一日5箱吸っている)タバコをやめれは娘の学費と交通費は出せると。」
きっぱりやめてから一週間後に夢の中におばあちゃんが出てきて、タバコを刻んで丼に入れてお湯をかけて、さあ喰えと。その夢がダメ押しで、以来一本も口にしていないのだと。
私が起こされた変な夢とは、訳のわからない動きをするサンドバギー車にオヤジが轢かれてしまうもの。それで早く目覚めてニュースに接して、早めの段取りを取ることができたのです。
運転手さんもおっしゃっていたのですが、ご先祖様が私達を見守って加護してくれていると。まったく、その通りだと共感することしきり。
地震男というのはあまり聞いたことがありませんが、どうやら私にはその片鱗があるようで…。
いろんなことを考えさせられた東北遠征でした。 |

|
ちょっとMBA足らず |
 |
|
中堅ファッション企業で、基幹系をはじめとしてシステムの総入れ替えのプロジェクトが進行しています。
要件定義も大詰めに差し掛かって、システムベンダーさんから懐かしいコンセプトが提示されました。今回のプロジェクトでは、とても柔軟でチャレンジ精神旺盛なソフトハウスの社長さん達に恵まれて、まただまだ予断は許されないですが、とてもいいプロセスが進行していると実感しています。
当の社長さん達は、社長であるがゆえにリスクも張れるし、無理なお願いも請け負っていただけるのですが、システムベンダーさん曰く、ISOの標準に照らし合わせると、開発プロセスと見積もりは、ああなって、こうなると…。
暫く頭に思い浮かぶことのなかった概念ですが、まさにそれは“ウォーターフォール”の考え方でした。ウォーターフォールとは、十数年前に、それをやっちゃいけないよということで語られたダブりや冗長性が許されないリニアな開発プロセスを指し示す言葉ですが、やっぱり生き残っていましたか…
それに対抗する概念として、オブジェクト方式やモジュールなどの概念がとりざたされて、WEBベースだの、WEB2.0だの、相変わらず真新しい言葉には事欠かないシステム業界ですが、レガシーはレガシーとして現前と生き残っているのに驚かされました。
MBAのココロとしてお話しするには憚られるので、コーヒーブレークにいたしましたが、実はどんな時代にも実は生き残っているレガシーな概念はいくつもありますよね。
卸からSPAへのイノベーションにチャレンジしていたその昔、これまでの業界を自嘲気味に“KKDDH”と称していました。勘と経験と度胸というところまではアパレルに限らず語られていたのですが、私たちはそれにDH、すなわち“どんぶり勘定”と“はったり”を加えてKKDDHといたしました。
石橋を叩いて渡るのはいいことなのですが、石橋を叩いているうちに、渡るべき石橋が崩れ落ちてしまった…というギャグもよく使われました。
これらの逸話を、「昔あったよね。」と簡単に片付けてはなりません。レガシーのレガシーたる所以は、現代に至ってもなお厳然と居座っている場合があるからレガシーなのです。
皆さんも今一度、身近なレガシーを見つめなおしてみませんか? |

|
チャレンジザ慣性モーメント |
 |
|
私は高校時代は理科系でしたが、大学は法学部に進んでしまいました。
12歳のときに当時の中一時代という雑誌の漫画で、離島での災害をアマチュア無線家の少年が救済するというストーリーを読んで感化されて、アマチュア無線の免許を取得したのがきっかけで、将来は電子工学系に進みたいと真剣に考えていました。
勿論、高校に進学してからは理科系を選択したのですが、体育会にはまってしまった私は、数UBと物理から挫折が始まりました。数学でのつまづきの始まりは“ベクトル”と“数列”からでした。数Tは共通一次の最初の年度に200点満点だった(自己採点ですが)のですが、数UBになって訳が分からなくなってしまいました。
後になって、数学とは実は哲学だと知ることになり、それ以降はいろんなことが理解できたのですが、当時そのように指導していただける師もいなかったことから、単なる小手先のテクニックとしての入り口は完璧だったのですが、本質的内容に入ったところでアウトでした。
同様に、物理の世界でも“ドップラー効果”のあたりから、かなり怪しくなり、“慣性モーメント”のあたりでは終わってしまったのが私の青春時代の結末です。
08AWから、MDボックスを作成して、VMDまで連動した店頭展開にトライしているクライアントがあるのですが、立ち上がりの商品は投入したのだけれども、店頭はセールを引っ張りたがって、計画値を下回っているのが現状だと…。
そこで引用したのが“トリムタブ”のお話です。トリムタブとは、船舶の舵を動かすための舵のことです。中東から石油を運んでいるようなタンカーは舵を切ってから船の向きが変わるまで数キロかかるそうです。もの凄い慣性モーメントが働いているからに他なりません。
さらに、そのような大きな船の大きな舵を切るためには、大きな舵を切るための小さな舵が必要で、それがトリムタブなのです。
今、私達が着手しているのは、大きな船の向きを変えるための大きな舵を切るための小さなトリムタブを動かしたところに過ぎません。トリムタブが動いて、確実に舵は切れ始めている筈ですが、大きな船体が向きを変えるには少し時間と距離が必要となります。
それでも、一刻も早く成果の程を実感したいのは世の常。ブリッジで「取り舵いっぱい」と声を張り上げている私達にとっては、ドキドキする毎日が続きます。 |

|
門前の小僧 |
 |
|
ROCKYとVMDのお仕事をご一緒する機会がありました。
新店、改装店舗の図面を拝見して、問題点や改善点を指摘するミーティングのあと、実際に渋谷に出て、二店舗回って「ああでもない、こうでもないと。」
概ね両者の指摘事項と方向性は合致し、いいお仕事ができたのではないかと実感しています。事後の反省呑み会の場で彼が一言。「北村はどこでVMDの勉強をしたのか?」私の答えは、「門前の小僧、経を覚えるですわ。」と。
私自身、VMDの専門教育を受けたり、専門部署を業務として経験したことはありません。しかしながら、SPA型の新業態の立ち上げや通販ビジネスの立ち上げ、CRMなど様々な新しい取組みを経験させていただくとともに、ありとあらゆる業態やブランド、店舗の生死を間近で見聞きしてきました。
小僧でも暗唱することができるようになるお経ですが、私の場合は、販売士、中小企業診断士、消費生活アドバイザー、ファッションビジネス検定、MBAと数々の普遍的理論と知識を学習してきました。そのベースの上にお寺から和尚さんのお経が聞こえてくるわけですから、単なる暗記に留まらず、その意味するところまで理解できたのでしょう。
とりわけ、心理学の中でも臨床心理学の領域と組織論の中の行動科学の領域はVMDと密接につながっている学問であると感じています。
チキンハートの割には、口の悪いROCKYは、「VMDの大先生方は、こう言いますが、それは大きな間違いです。」と何度も口走っていました。そんな彼が、“真珠”と“ボクシング”というキーワードにはまっているようです。どんなデザインやプランが上がってくるか、楽しみにしています。 |

|
居酒屋に学ぶ |
 |
|
セレクトショップの某業態の事業責任者の方とMDの方とこんな会話がありました。
私が行きつけている居酒屋に、日本海の島根料理を出す店があります。ここ数年、常宿にしている四谷三丁目のホテルの近く(歩いて30秒)にあることから食堂と化している店です。私のブログのポリシーとして、パブリックな存在いがいの人、もしくは法人は決してUPすることはしませんので、そこはご了承ください。
その店は島根に本社があるのですが、首都圏を中心に数十店舗の多店舗展開を複数業態で行っている、なかなかの企業家の会社であります。社長は気さくでとてもいい人です。(その実はただのおっちゃん。私もそうですが…)
その店のウリは、島根の海の幸、陸の幸、地のお酒を扱うことにあります。海の幸に関しては全て現地の市場からの直送に限っています。通年で楽しめるのはサザエやひおうぎ貝で、今の季節だと鮎だったり岩牡蠣だったりするのですが、決して築地で仕入れるような野暮なことはしません。
加えて、厨房のスタッフをはじめとするキーパーソンは、全員、島根出身の方々が東京に赴任して店の切り盛りをしておられます。中(厨房)外(サーブ)を問わず、サポーティングスタッフには現地調達の方もいらっしゃいますが、コアの部分は現地調達→派遣という構図です。
さて、冒頭のセレクトショップのそもそもの遺伝子は何であったか…
オリジナル商品やOEM商品でSPA業態の真似事をしてみたり、原価率や粗利率を追っかけることでインダストリアルな指標を目標化してみたりで、何か根本的なセレクトとしてのオリジンを忘れかけてはいませんか?
冒頭のお二人が、是非とも宴をやりましょうということで当該居酒屋に並々ならぬ関心を示しておられました。忘れかけている、忘れてはならない基本がそこにはあるのではないでしょうか?
今月25日の宴を楽しみにしています。 |

|
二人の共通点 |
 |
|
中田英寿さんの紀行番組が後ろで流れていました。
フツ族とツチ族の抗争があったルワンダでの一シーンです。地元紙に、“中田英寿来たる”と報道され、タクシードライバーからその紙面を指差され声をかけられてる場面での一言でした。「私が偉大なわけではありません。サッカーというフィールドが世界中でそういう地位を築いているだけに過ぎません。」
同じ趣旨の発言を、一昨年の暮れにとある業界人から聞かされ、それ以来パートナーと慕う友人がいます。ROCKYというバンドルネームでアパログにも寄稿している彼です。なにせ、“チキン”なものですから、本名すら明かせないまま、あれだけ面白いコンテンツを発信し続けてくれていることは皆さんもご存知かと。
大手アパレル企業で、セレクト型の新業態を立ち上げて成功に導いた彼は、独立後、苦労を重ね続けています。私との最初の出会いで、「会社を辞めて、自分でやってみて、ようやく分かったことがある。私が凄かったのではなく、会社が凄かったのだと…。」それ以来、彼とは何でも話せるビジネスパートナーとして現在に至っています。
私の元同僚の別のチームが大きく苦戦しています。チキンのROCKYはチームの重要性と説いていますが、チームはさらに上位の組織である会社や社会に属しており、会社や社会もマクロ的歴史的トレンドや浮沈にさらされていることを忘れてはなりません。
ビッグウェンズデーに乗ることができて脚光を浴びるサーファーもいれば、大きな三角波に遭遇して大切な命を落とす猟師の方もいらっるのです。それぞれの実力の程と日ごろの行い良し悪しを議論することにさほど意味はありません。私達は私達の努力と実力を超える、より大きな力に影響されていますし、ある意味、支配されているとも言えます。
大苦戦中の元同僚が、ある種の勘違いとある種の本質に早く気付いてくれることを祈りつつ、引き続き後ろの画面では“世界の車窓”が異文化を映し出しています… |

|
信用基盤としてのサプライチェーン |
 |
|
アパレル業界の旧態依然とした取引慣行が、“最後の暗黒大陸”と言われ、そのことを修士論文の前文に引用したのは、早や14年前のことになります。
最後の暗黒大陸よりもさらに取り残された暗黒大陸だと自嘲気味におっしゃられていた羽毛布団業界のメーカーさんのトップがいらっしゃいましたが、同社は現在民事再生の途上にあります。
さらに、とんでもなく取り残された業界がありました。“宝飾品”の業界です。ご縁があって、ここ何ヶ月か業界の方と議論する機会があるのですが、モノづくりのプロセスにおいて二つの側面でファッション業界とは全く異なる次元のままであることに驚かされます。
第一に、マーケティングやMDという発想が皆無であること。第二に、川上から川下までのサプライチェーンにおけるプレーヤーの多さと各プレーヤーの役割と取引条件の曖昧さです。
第一のポイントは、ダイヤその他の天然石、金、プラチナなどの普遍的価値が高いマテリアルを用いていることにも起因すると思われますが、究極のプロダクトアウト指向が今も主流のようです。顧客やマーケットが求めることよりも、原材料ありきで自分達の技術でできることをやるというスタンスです。
第二の点は、アパレル業界が複雑で多段階にわたる製造および流通のプロセスを、できるだけ合理化しながらギリギリのところで生き残っているのに比べると隔世の感があります。業界で起こったトラブルの例を以下引用することでそのことが理解できるのではないかと思います。
原石を販売する会社が海外国内を問わず多数あるのですが、そこから石を仕入れて加工して卸販売する業者が小規模で運転資金を負担する能力がない場合に、一定の保証金を積むことや信用枠を設定することで石の占有権の移転が簡単に行われるのです。
そこでは、保証金のレバレッジや与信枠の具体的な設定のないまま、いわば“移動伝票”のみ(場合によっては、それすら曖昧)で高価な材料であるダイヤモンドが右から左へといとも簡単に動くのです。その結果、使わなかったり残ったものが一定期間後に戻されて、その差分がそこで初めて納品として扱われる訳ですが、○○使用分と称して高価な石がどんどん流通し続け、保証金と与信枠が積み上がり、気がついたら石とともに担当者が消えていた…という結末です。
想像するに、足元の実際の動きに気が付いていない当該卸販売業者の負担する保証金と与信枠は膨れ上がる一方で、何かの事情を有する担当者は石をどんどん詐称して手元に引いて、市価の半値程度で換金する自転車状態にあったのだろうと。
今でも、その人は業界内で活動しているらしいとのことですが、彼を捕まえて逆さまにしても一銭のお金も出てこないだろうことから、事件として当事者を追及しても仕方がないという結末。
アパレル業界でも、有償無償を問わず支給原材料の管理や仕切り方については、どの会社も管理の強化と改善を努めてきての今があると拝察いたしますが、現在でもグレーな取引条件やトラブルの火種になりかねない曖昧な部分は少なからずあると思われますが、このような事故が起こる可能性はあまりないと言えます。
かかる宝飾業界にも、古き悪しき慣例をぶち壊して新しい秩序を志を有する武士は存在しています。何かのお力になれればと思案を重ねる日々です。
|

|
抽象能力 |
 |
|
今日、私にとっては、とても珍しい出来事がありました。
私のブログを読んでいただいている方からのコメントをお二人の方から頂戴したのです。ありがたいことです。
ひとつは、「いつも、難しすぎて、よくわかーんない。」というお言葉、いまひとつは、「何で、あんなに字ばっかりなの?」というもの。
アパレルウェブの千金楽社長からブログの執筆依頼を受けるにあたって、「アパレル業界の人々って、実はとっても脇が甘くて、それによって不必要なリスクやロスにさらされていますよね。だから、そこに啓蒙するようなコンテンツが欲しいんですよ。」という趣旨のお話しでしたので、それを忠実に守ってきました。
アパレル企業に入社しながら法務部門の担当になった私のビジネスツールは文字でした。ボスからは、「法務担当者に必要な能力は“抽象能力”だ、と早くから諭されていたのですが、その意味がようやくわかったのは実務経験を10年近く費やした30歳のころだったでしょうか。
要は、現実に起こっている複雑な事象の本質を捉えて端的に表現する能力もしくは読み取る能力のことなのですが、これが必要なのは法務業務だけではありませんよね。全てのビジネスに共通の普遍的なスキルだと思うのですが、これがちと難しいのです。
他人の発言や文章を読んで、本意を汲み取る訓練はすなわち抽象能力を鍛えることに他なりません。商品やお店をみて本質を掴む能力に長けた人材には放っておいても事欠かない業界ですので、私はあえて文章から本質を掴むことにトライしたい人々に向けて本ブログを執筆してきましたし、これからもそうしていきます。
商品やお店は、いわば主役の台詞のようなものです。華やかで脚光を浴びるメインではありますが、それだけでは舞台は成立しません、大道具も小道具も必要で、ト書きも行間もあるからこその舞台であることを忘れてはなりません。
これからもパッと見は取っ付きにくいかもしれませんが、メッセージ性に富んだブログを目指して邁進していきますので、マニアックな読者の方々、最後までお付き合いあれ。
|

|
真理という宇宙 |
 |
|
牛肉やらウナギやら、もう止まりませんね。
社長と社員が醜い責任のなすり合いを演じた片や牛肉。あっさりと悪意を認めた片やウナギ。JAS法だの不正競争防止法で議論を進めていくと法務マターになりますが、今日は組織論に展開し、人生論を出口といたします。
前回、他部署の部長に“死ね”と言われたエピソードを披露いたしましたが、新入社員の頃の私は、責任をなすり合う牛肉の社長と社員のレベルでした。ボスから「君は、私が死ねと言ったら、死ぬのか!!」と何度叱られたことか。
きっと、「あなたの指示命令どおりに私は仕事(今にして思えば、実際はただの“行為”のレベルだったのでしょうね)をしたのだから、それでもたらされた結果に関してとやかく言われても、わしゃ知らん、というような言い分(言い訳)が顔に書いてあったのでしょう。
宇宙というもっとも大きな存在のなかには、自然の法則という絶対的な真理があります。我々が日常的に認識することができるもっとも大きな個体である地球にも、たかが人間ごときには操作することのできない大いなる摂理があります。
私たちが形成する社会的集団(国家や会社など)は、それぞれ自立した立派なひとつの宇宙であり、そこには真理が存在していなければなりません。
会社や部署という単位も、それぞれ真理が存在するべき宇宙であるということができますし、それらを構成する下部組織や最終の個々人も真理が存在する宇宙であることが求められているのです。
「上が言ったことをやっただけ」「下が勝手にやったこと」という言い方は、真理の連鎖に裏付けられた自立する宇宙の連続を否定したものに他なりません。すなわち自らの社会的存在、ひいては生命としての存在すら自己否定する最低の発言なのです。
十数年前、組織改革プロジェクトに携わる機会がありました。グループ経営で著名な大手製造業の戦略スタッフの方を招いて議論を進めてまいりました。彼らとその会社からは、“個と全体の調和”というキーワードを教わりました。
「本当の意味で自立した“個”というのは、“全体”から切り離されて全く独立した個ではなく、自らの上位にある“全体”と、自らを全体としたときにより下位にある“個”を明確に意識した上で、それらと調和していなければ、それは自立とは言わない、と。
30過ぎの若造の私にとっては、社会人として独立した自分…とか、いずれは会社を飛び出して独立…とか、いろいろ考えていたのですが、後ろ頭をドガーンと殴られた瞬間でした。
自立して生きていると自信をもって言えることは、それ自体はとても立派なことですが、私たちは「(多くの人々や様々な社会性との関係性の中で)生かされていることを忘れてはなりません。
|

|
あなたは塀の内側?外側? |
 |
|
前回お話しした当の社長さんも、昔は謙虚でいい人だったとのこと。成功体験を積み重ねるにつけ、人が変わっていくのは人間の性なのでしょうか…?
東証二部上場の不動産会社が民事再生を申請し、久々に公募普通社債がデフォルトになりました。こちらの社長さんのコメントは、「やはりワキが甘かった…」と。
短期間での地上げには、やはりその筋の人々の力を借りなければならないかというと、必ずしもそうではありません。義理人情に厚く、独特の語り口とお人柄で見事にきれいな地上げをやってのける業界人もいらっしゃいます。
企業暴力に一緒に対応していた警察OBの方から、“塀の内と外”というお話を教わりました。一般の市民は普通に塀の外側を歩いていて、塀の内側を知る由もなく、ましてや内側に落ちてしまうリスクも極めて小さい。
一方で、警察の最前線(特にマル暴)で働くということは、塀の上を歩くということ。すなわち、塀の内側を見ることもできるし、一歩間違えると内側に落ちてしまう。時々、その筋の施設にガサ入れが入る場面の映像で、どの人がどちら側の人なのか訳がわからないシーンは皆さんも心当たりがおありかと思います。
前回の社長さんは、塀の上に立ってしまった自覚がないまま内側に転落してしまった人。今回の社長さんは、薄々わかっていながら塀の内側をつついてしまって、ドボンした人。
本業における優秀な人材や業務のプラットホームはいわば足腰のようなもので、強靭に鍛え続ける必要があります。
他方、ワキを締めてかかるには、塀の上をバランスよく歩くことができる強力なスペシャリストが不可欠です。アパレル業界には希少な人材ですが、何と言ってもナンバーワンは前職でお世話になったKKさんをおいて他にはいらっしゃらないでしょう。
私も外部から様々な場面で経営者の方々の支援を差し上げていますが、いざ塀の上に立たれたその時に、相談がないというケースが多いのが残念でなりません。
今の自分の立ち位置とリスクとオポチュニティを冷静に感知できる能力が、経営者にとって第一に必要なコンピテンシーだと強く感じます。 |

|
まさかの業務上横領容疑 |
 |
|
まさか、従業員の福利厚生費の積立金にまで手をつけるとは…。これでは、前納した授業料が返還された一般消費者も浮かばれませんね。
以前、業務上横領のお話をさせていただいたことがありますが、法務時代のボスから、お金に関しては大変厳格な指導をされました。
今でも後を絶たない有名ブランド商品の偽物ですが、当時、かなり派手目系の紳士ブランドのコピー商品がマーケットに氾濫していました。
社員や取引先からの情報提供を受けては、販売場所に行ってサンプルを購入したり、店主と交渉したりの毎日だったのですが、あるときこんな出来事がありました。
物流関係の取引先の社員の方が、休日に三ノ宮の高架下のお店でTシャツのコピー商品を見つけて一枚購入してくれたのですが、その経費処理に関するトラブルでした。
当該社員の方は、レシート(特別に領収証は発行してもらわなかったそうです)のオリジナルで自分の会社から経費精算を受けており(すなわちオリジナルのレシートは取引先の経理部に提出済)、当社にはそのレシートのコピーが回ってきたのです。
窓口の物流部門の部長が、早く取引先の会社に立替分をお支払したいのでと、私を経由し
て経費処理をすることになりましたが、法務のボスが「レシートのコピーを根拠にして会社の金を動かすことはできん。」と突っぱねたのです。
その理由は、オリジナルの書類はこの世に一枚しかないと見なすことができるが、コピーは何枚でも作成可能で、経費の二重精算になっていない保証がどこにある、という趣旨でした。
窓口の部長は、取引先なんだから信用して早く清算してあげるのが筋だと烈火のごとく怒っているし、法務のボスは頑として聞き入れてくれないし。
最終的には、窓口の部長がそのコピーに一筆を書いて押印することで決着したのですが、二人の間を行ったりきたりで二三日かかったことを記憶しています。
窓口の部長には、「そんな丁稚の使いしかできんような社員は死ね。この場で首をつって死ね。ロープ貸したるわ。」とも言われました。
新入社員のその頃は、訳もわからず右往左往するだけでしたが、その後、数々の社内不祥事との遭遇や世の中で起こる様々な出来事を見聞きするにつけ、法務のボスの言わんとしたことの意味が少しづつわかってきました。
私に死ねと言った部長も、何年も前に会社初の定年退職を迎えられて、今はいいおじいちゃんになっておられるんだろうな…と。
こうして自分の会社を経営していると、社長としての自分の全責任で全てのカネの動きは掌握し、ハンドリングすることができるのですが、大勢が集まっている大組織となると、そうはいかない場面も多いので、手続とルールには厳格でないととんでもないことになりますね。
冒頭の、トップが悪意を持っている場合にはどうしようもないですが…
ちなみに私が死ねと言われたレシートの額は500円でした。 |

|
販売行為の法的分解 |
 |
|
店頭でお客様に商品を買っていただく販売行為を法的に分解すると次のようになります。
1)契約の誘引=お店を構えて商品をディスプレイしている状態
2)買いたいという意思の伝達=商品をレジに持っていく行為
3)売りますという意思の伝達=お買い上げありがとうございますという意思表示
4)上記2)と3)によって売買契約の成立(合意)
5)契約上の債務履行(売主は商品の引渡し、買主は代金の支払い義務の履行)
1)〜5)までの行為が一連のものとしてほぼ同時に完了するのが通常ですが、それぞれに時間差が生じたり様々な横道が存在するので実際の販売の場面ではいろんなことが起こります。
気に入らない客に、「おめぇなんぞに食わせる寿司ぁねぇ!!」と啖呵を切る職人さんがいるように、売主は売らない選択をする自由があります。一般的には上記1)の状態で“売ります”という意思表示も行っていると解釈されますので、アパレルの店頭でお客様が商品を手に取られたあとに、“売りません”というのは現実的ではありません。
別のお客様のお取り置き商品は、レジ周りの棚やバックストックに避けておくことで間違いが起こらないような工夫をしていますよね。
ところで、お取り置きとは法的にはどのようなステータスでしょうか?厳密に言うと、売買の予約契約を行っている状態と売買契約は成立しているが債務履行を遅らせながら解約解除権を買主に留保している状態とに分かれます。
一般に、「ちょっと考えるので置いといて」というケースは前者にあたりますが、高額品なので内金を預かったり、一部入金しておいて次回全額払って持って帰りますなどの場合は後者になることもあります。
それらのステータスによって、誤って他のお客様に売ってしまったり、紛失したり滅失したりした場合の法的扱いは異なってきます。日常の業務オペレーションの中で何気なく行っているいつもの行為の中にも法的ステータスが曖昧な場面や状況がたくさんあります。
ノーマルな状況では問題は起こりませんが、イレギュラーなことが発生したりクレーム事案ということになると、そのようなケースでは安易に対応を始めるのではなく、まずは法的ステータスを確定させることから始めなければなりません。 |

|
スピンアウトと法律違反 |
 |
|
スピンアウトやスピンオフという言葉には、前向きで肯定的なイメージがありますが、実はいくつかの違法行為と紙一重なのです。
スピンアウトとは、企業の一部門や、活用されていない研究開発成果、ビジネスアイデア等を切り離し、一企業として独立させ、事業展開を行うことです。そのうち、元の企業とのつながりを保ったまま分離独立するパターンをスピンオフと呼びます。
元気よく活躍している若い企業には、社内ベンチャー制度をジャンプ台としてスタートした事業も少なくなく、我々の業界では、中堅商社の中でその制度を活用して立ち上がり、雑誌型通販とNET通販を融合させて上場を果たされた企業や買物代行サービスで注目を浴びている運送関係の大手の子会社がありますよね。
ある企業で、情報システムを担当している取締役が辞任して会社を離れるという事例が発生しました。創業来のメンバーだったのですが、最近の会社の方向性と自分の考えが合わないということで、やむを得ない結論になったようです。
その企業は、基幹系、情報系ともに優れたシステムに支えられているのですが、いかんせん、ベンチャー故にシステムの要件定義書や業務フロー、システムアーキテクチャーなど、ドキュメントは全く存在しておらず、全てがその取締役の頭の中にあるとのこと…。
そこそこの規模の中堅企業においても似たような話に遭遇したことがあり、会社にとっては大きなシステムリスクということになります。
メンバーを誘って出て行くのではないかとか、退任後も暫くはアウトソーサーとして仕事をやらせて欲しいとか、そんな話が飛び交っているのですが、ちょっと注意が必要です。
取締役には商法上、競合避止義務と忠実義務が厳しく課せられています。本業とは関係のないシステム事業を立ち上げるのであれば前者の問題は発生しませんが、自分の頭の中にしかないシステムを組んでおいて、外に出て、暫くは仕事をもらって、でもそうじゃない場合に備えて次なるクライアントの目処は立てておいて、システム要員を引き抜くとなると忠実義務違反については、かなりグレーになりそうな案件です。
さらには、背任という犯罪がありまして、それは他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときに成立するもので、状況によっては背任にもなりかねないデリケートな事案となっています。
会社の中では普通に何気なく業務に就いているのが皆さんの実情かと思われますが、日々発生しうる普通の出来事のすぐ裏っ側に違法行為の危険性が潜んでいることを忘れてはなりません。 |

|
マッチポンプ |
 |
|
匿名と実名のメールを使い分けてストーカー容疑で裁判官が捕まる事件が発生しました。報道では“自作自演”という表現が使われていましたが、私には“マッチポンプ”という言い方の方がしっくりきます。
法務のボスから、ビジネスのスキルや知識だけでなく様々な原理、原則(美学と言ってもよいかもしれません)も教えられました。その代表格がマッチポンプです。自らマッチで火を付けておきながら、自分でポンプで消して賞賛や利得を得るという意味です。おそらく総合商社のビジネスを通じて様々なマッチポンプをご経験されたのでしょう。社内外を問わずマッチポンプ的事案にはただならぬエネルギーをもって接しておられました。
反社会的勢力の団体の方からの商品クレームはその代表事例のひとつですが、社内でマッチポンプが発生したときも、もの凄い執念でそれを糾弾しておられました。私にはちょっと派手なスタンドプレーに過ぎないのでは、と感じられるケースでも彼は見過ごすことはありませんでした。
同様に彼が嫌ったものに“ペテン”があります。私の報告や発想の仕方に対して、何度となく「君は私をペテンにかけるつもりか。」と怒鳴られました。ペテンとは、中国語で詐欺を意味するbengziが語源です。
マッチポンプもペテンも“欺く”とか“偽る”という共通点がありますが、マッチポンプとか自作自演には小学生の作文的な幼稚さや滑稽さのニュアンスがあり、ペテンには小賢しいイメージを感じます。日本の伝統用語では“イカサマ”となりますが、それには道理や義理に反するという感じが含まれますよね。
このように、法律用語では“詐欺”の範疇に入る(近い)行為も、別の表現を当てはめることで微妙なニュアンスを表すことができます。ちなみに、法律上は、
1)相手を欺罔(ぎもう)し
2)相手が錯誤に陥り
3)相手が財物や利益を処分し
4)それが騙した本人もしくは第三者の手に渡る
以上の構成要件を満たさない限り詐欺罪は成立しませんので、マッチポンプやペテンが全て法律上の詐欺に当てはまるわけではありません。
小学校から中学、高校とクラス委員長を毎年経験させていただきましたが、小学4年だったか5年のときだったか、教室内では帽子をかぶってはいけないという規則を無視する同級生の帽子を校庭の焼却炉に投げ込んで、先生から家庭訪問の際、何もそこまで…と言わしめた私にも、少しは美学のようなものがあるのかも…。 |

|
契約書の落とし穴 |
 |
|
前々回に契約書のお話をいたしましたが、内容は店舗の転貸借契約書なのですが、表題が“業務提携契約書”となっている実際の契約書を目にする機会がありました。
両社がマインドレベルで共鳴しあっての契約と伺いましたので、それはそれでいいのですが、基本的な確認事項が脆弱であることと、かなり特殊な特約が入っていることが気になりました。
現在小売業を営んでおられる方から当該物件の転貸借を受ける訳ですが、原契約書の内容の確認ができていません。原契約が、旧の借家契約なのか定借なのか、さらには転貸借禁止条項はないのか、そもそも契約当事者に当事者能力はあるのか、など心配なことがいくつかあります。
家主さんが年配の方だから人と合うのがいやなのでということで、オーナーとの面会もできておらず、登記簿の閲覧もしないままの契約となってしまったようです。
また、更新可能な10年の定期契約なのですが、中途解約の場合に解約を申し出た側が数百万円のペナルティを支払うという特約が入っています。家主の側にもペナルティ義務があるということと、半年間の催告期間のリスク(家賃)以外にも10年未満の解約に際し借家人側にも大きな負担となる特約です。家主の側にもペナルティということには貸す側の意気込みを感じますが、反対に借りる側が必要以上に重たいリスクを背負わせれている感が否めませんでした。
よく聞く言い分に、「お互いに波長が合って、信頼しあっているのだから契約書など要らない。」という趣旨の内容がありますが、企業法務的には全く正反対のスタンスをとらねばなりません。信頼しあっているからこそ、その証を書面にしたためておくのだというスタンスです。
さらには、信頼関係というものは時系列で変化するものです。仲の良かった夫婦なのに離婚の調停で凄惨なバトルを繰り広げる例も少なからずありますよね。
法務部時代のボスに結婚式の主賓をお願いしたのですが、彼の教えは次の通りでした。「契約書には平常どおり上手くいっているときのことなど、それほど詳しく謳う必要はない。お互いにすれ違ったとき、さらには究極のすれ違いである別れるときの条件については、こと細かく決めておく必要があるのだ。すなわち契約書とは別れの条件をしたためた書面なのだ」と。
結婚を間近に控えた25歳の若造には、あまり深い意味はわかりませんでした。 |

|
メタファー |
 |
|
経営学に限らず、様々な学問の分野や実務の場面で役に立つのが“メタファー”です。
メタファーとは、“隠喩”とか“暗喩”のことで、洋の東西を問わず高度なテクニックが古く存在しています。
メタファーのアカデミックな定義は、次の通りです。
1)直面する事実の本質的構造を理解した上で
2)同じ構造の別の事例を検索、表現することで
3)理解の促進を図ること
先日、店頭のMDカレンダーと販促プランのミーティングの場で、こんな話になりました。盛夏を前にして、店頭販売の企画を練りたいのだけれど、あれは去年やったし、これはもう飽きられているだろうし、ネタが尽き果てた…と。
そこで、私から一言。
提供する側のプロが陥りがちなパラドックスがあります。実は消費者は今年もそれを待っているにも関わらず、サプライ側がマンネリ化してしまっていて、奇をてらった策を弄して結果的に顧客の支持を得られないという現象が、まま発生します。
数十年の長きにわたって支持されている“水戸黄門”のPM8:45の安心感たるや、何にも代えがたい価値がありますよね。また、最近の成功番組では“ごくせん”がありますよね。全てストーリーは見えているのですが、絶対に期待を外してくれないオチにリピーターは納得、満足しているのです。
ただ、黄門様や助さん格さん、弥七などが代々変わっていき(由美かおるだけは不変ですね)、ごくせんではジャニーズのメンバーが代替わりするところに、変わらないものの中にちょっとした変化がありますよね。
MDの基本スキームは、“変わらないもの”と“変わるもの”の絶妙なハーモニーです。水戸黄門とごくせんというメタファーのおかげで、ミーティング出席者全員が何をなすべきか、お腹に落とすことができたのでした。 |

|
契約に関する大いなる誤解 |
 |
|
契約および契約書にかかわる大いなる誤解をされているケースや、詳細を理解されていないケースにに少なからず出くわします。
「口頭すなわち単なる口約束でも、契約としては立派に成立している」という程度の知識は皆さんご存知のことと思いますが、少し突っ込んでいくと怪しくなる方は意外と多いのではないでしょうか?
では、問題です。
1)口頭でも契約が成立しているとなると、いわゆる“契約書”にはどういう意味と役割があるのでしょうか?
2)当事者が記名押印もしくは署名した契約書と、単なるメモやメールでの約束事はどう違うのでしょうか?
3)“契約書”よりも“覚書”の方が、簡略で法的効果も弱くなるという理解は正しいでしょうか?
さて、正解です。
1)契約は、口頭だろうが書面だろうが手段は問わず、当事者間の約束が成立した段階で実体として有効に存在するものです。ただし、その実体を目で見える形で第三者にも正確に伝えるために、何がしかのエビデンスが必要で、それを“契約書”として作成するのが無難であるということなのです。役割としては、当事者間で約束事の再確認の拠り所になるとともに、最終的には裁判所での証拠となるものが契約書です。言った、言わないの醜い争いはよく見聞きしますよね。
2)証拠能力の高低に差がつくだけで、メモやメールもちゃんとした記名押印や署名がある契約書に準じる立派な契約書の範疇に入るドキュメントです。刑事裁判は疑わしきは罰せずという原則にあるように、完全に真っ黒であることが立証されない限り有罪にはなりません。(実体は甚だ怪しいですが…)一方で、民事裁判は真実とは別の次元で、訴訟という手続の中で証拠能力の高かった方が勝ちます。より証明力の高い証拠を積み上げて裁判官の心
証を勝ち取った方が勝訴するのです。誤解を恐れずに言うと、民事裁判はゲーム的要素が強いのです。すなわち、より強力なレアアイテムを持っているプレーヤーが勝つということです。
余談ですが、法律的には“記名押印”もしくは“署名”と表現するのが一般的で、“署名捺印”という表現は俗語でございます。
3)書面のタイトルは、契約の実体や効力には一切関係がありません。したがって、“契約書”だろうが、“覚書”だろうが“確認書”だろうが、タイトルは何だってかまいません。“契約書”と表題が打ってあっても中身が約束事になっていなければ、それはただの紙切れに過ぎません。
“行列のできる法律相談所”は高視聴率をマークしていますし、NHKの“バラエティ笑百科”は20年以上も続いている長寿番組です。人々が、正確な知識を持ち合わせてはいないけれど、実は身近だったり切実だったり関心があったりするのが法律案件ということの表れでしょうか?
裁判員制度の導入も間近に迫っています。少しでも皆さんの注意と関心を喚起し、お役に立てる法務事案を取り上げることができればと思っています。
|

|
現代アート |
 |
|
加護野ゼミOB研修旅行記の最終稿です。
NTNさんと林原生物化学研究所さんの見学および、そこから得られた知見をベースにしたゼミナールで過ごした一日半のあとは、ベネッセハウスと直島にて現代アートを堪能いたしました。
まずは、ベネッセハウスから。話には聞いていたのですが、郷里の岡山の地元(正確に言うと香川県ですが、岡山県の宇野港からフェリーで20分ですので)でもあり、現住所の神戸からも中途半端に近いことから、わざわざ行って見ようという気が起こらないまま今に至っていました。
安藤忠雄さんの建築物は、前職やコンサルティング先のオフィスにて何度か経験しており、決して使い勝手が良いものではない(建築として否定している訳ではなく、空調が効きにくいとか仕事をする上での導線が決して良くはないという意味です)という印象だったのですが、あにはからんや、極めて快適な二泊を過ごすことができました。
オフィスという視点ではなく、リゾートやミュージアムという立ち位置から経験すると、こうまで印象が異なるものかと新たな発見をいたしました。部屋にはTVなどという野暮なものはなく、BOSEのラジオがポツンと一台。とてもお洒落で快適な空間でした。
食事は、和洋、夜朝とも、瀬戸内の素材の新鮮さもさることながら、入っているレストラン、シェフのセンス、腕前とも超合格点。トロッコに乗ってゴトゴトと山頂まで上ったところにあるバーも素敵でした。
現代アートとの出会いは、95年のNYの近代美術館においてでしたが、そのときとは全く異なる感動が直島ではありました。NYでは、何かとても人為的なテクニックばかりが前面に感じられて、インダストリアルなインパクトは感じたのですが、マインドに響くようなそういう心の慟哭を強く感じることはありませんでした。ところが直島では、人間の息吹というか、生活観というか、そんななかで共存、自己主張しているアートが絶妙なコントラストで私の体に飛び込んできました。
地中美術館もベネッセミュージアムもよかったのですが、特に、街中の民家の中に点在する“家プロジェクト”がそのような印象を決定付けたのではないかと思います。
一泊ではちょっと強行軍になりますので、できれば二泊してじっくりと島全体を堪能してみてください。私も島内の鑑賞には半日しか使えなかったので、そう遠くないうちにリピートしたいと考えています。
余談ですが、当日は打ち合わせを兼ねてご滞在中の安藤氏ご本人や、撮影のために来られていた福武總一郎氏のオーラにも触れることができ、大きな収穫のあるゼミ旅行を終えることができました。
いつもながらの節を聞かせていただいた加護野先生、遠路より集まった同窓の諸氏、また新たな試みとして加わっていただいた05年組の皆様、有意義な三日間をありがとうございました。次の金沢の製薬工場視察を楽しみにしています。 |

|
加護野ゼミOB合宿(2) |
 |
|
加護野ゼミOB研修旅行記の第二弾です。
NTNさんの岡山工場に続いて訪問したのは林原生物化学研究所です。学生さんから社会人まで年間4000名程の見学者が訪れるそうで、案内いただいた広報のご担当者も大変手馴れておられました。
数年前に林原健社長が「私の履歴書」を執筆されましたが、株式公開企業ではないので、比較的パブリックな情報が少ないことから、とても貴重な初耳情報がたくさんありました。
まずは、経営の羅針盤とも言える基本ポリシーから。
1)Only Oneでその分野でNo1を目指す
2)商品や研究テーマはシーズから(消費者ニーズからは入らない)
3)戦略的に非上場を貫く(小さくても存続できる企業を目指す)
4)メセナは企業の生命線(慈善事業として実施しているのではない)
マーケティングを行うと、他の(大)企業と一緒になるので、それでは林原の良さが出せないので一切マーケティング活動は行わないとのこと。石井淳蔵先生とバトルするとどんな議論になるだろうかと皆でささやき合いました。
また、林原社長は異分野の知識、経験こそが創造力の原点であると考えておられ、メセナの諸活動がまさに創造的研究活動の源泉となっているそうで、そういう意味でメセナが生命線なのだそうです。ちなみに類人猿研究センターのチンパンジー諸氏は、人間である社員と同等にさん付けで呼ばれて大切にされているそうです。
もっとも驚いたことは、広報ご担当者の“うちの社長は、グループ全体の売上や利益をおそらく知らないと思います…”というお言葉。経営のそういう部分は弟さんでいらっしゃる専務が取り仕切っておられるのでしょうが、トップが売上や利益にそれほど大きな関心を持たないというところに同社のユニークさと強さを感じました。
翌日のゼミでは、林原さんの見学を受けて、「ファミリービジネス」がひとつのテーマとなりました。ファミリービジネスとは広義には非公開の企業であり、狭義には同族、家族経営のオーナー企業を意味します。ニッチな案件、リスクの高い案件、成果を見るまでにかなり長期間を要する案件など、ファミリービジネスでないとコミットできないものがたくさんあります。事実、林原社長は“5年、10年を要する研究テーマの選定は全て自分で行う”と。
変化の激しいマーケットでコミットすることの非合理性とリスク分散の共存がもっとも上手い企業の一社がアパレル業界にもありますが、彼らが非上場の道を歩んだのも同じような文脈を読み取ることができます。 実際、上場を果たしたファミリー企業の約三分の一は上場後もファミリー経営を貫いているという研究結果もあります。
10億円ものお金が使い込まれることを見過ごしてきた某団体の会計課の方々。他人様から預かったお金なので文字通り他人事だったのでしょうね。1989年に当時の社長の“パブリックカンパニーを目指す”という上場宣言を聞いたときには鳥肌が立ったのですが、“公”とか“パブリック”という言葉に妙に空虚な響きを感じざるを得ないのは、気のせい?それとも、齢のせい??? |

|
加護野ゼミOB合宿(1) |
 |
|
加護野先生とゼミOBの方々と恒例の研修旅行に行ってまいりました。
今回の訪問企業は、NTNの岡山工場と林原生物化学研究所です。
前回、宮崎のダンロップのタイヤおよびゴルフクラブの工場見学とシーガイヤでの丸山CEOとのディスカッション以来、約一年半ぶりのゼミ合宿でした。
まずは、NTNから。東洋ベアリングと言うと、ピンと来る方も多いと思いますが、ベアリングの大手優良企業で、岡山工場では自動車用の等速ジョイントを生産しておられます。
最初の感動は、ここで生産された等速ジョイントが、はるばる海を渡ってバイエルンでアセンブリーされて再び日本に戻ってきて私の愛車を支えてくれていることを始めて知ったことでした。
そんな個人的感傷はさておき、当日のサプライチェーンの視点から見た議論のポイントは、海外のサプライヤーには真似が出来ない日本的サプライチェーンの特徴と強みは何かということでした。
一言で言うと、「サプライヤーが後工程の工場を止めてはならないという供給責任を、契約上の条件としてではなく製造メーカーとしての倫理観として強く持ちあわせている。」ことです。
NTNのサプライヤーとしての倫理観がトヨタをはじめとする自動車メーカーの供給力を支えており、詳述は避けますが、住友金属がJRを支えているという図式です。そのおかげでJRは安心して世界に類のない正確無比なダイヤを維持することができ、ひいては電車で通勤したり移動するビジネスマンの不遅刻を支え、分単位のアポイントを可能とし、結果的にわが国のあらゆる企業の利潤の源泉になっていると。ただし、それらは契約書の上で明示されているわけではなく、サプライヤーの精神の中に存在しているものなのです。
そのことを最初に指摘したのはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」で、そこでは“人間の仕事は他の人間によってチェックすることはできない”と説かれています。すなわち、契約書上の条件で相手方の行動を本質的に律することはできないのです。この議論は、モチベーションで言う、“内発的動機付け”や“内省”というキーワードにも通じているなと感じました。
NTN見学から導出された知見には、二つの含意があり、ひとつは“サプライチェーンの書かれざる見えざるルール”ともうひとつは“各企業の利益の源泉は、企業や業界の枠組みを超えて存在する社会資本的な価値連鎖の中にある”ということです。
林原生物化学研究所と、宿泊およびゼミナールに使用した直島のベネッセハウスのお話は次回に。 |

|
24年の歳月を経て(2) |
 |
|
総合商社の新入社員の方々との三日間の真剣勝負が終了しました。
ずっとしゃべりっ放しという訳ではありませんが、さすがに連続して合計26時間のプロセスオーナーを貫徹するとさすがに疲れました。とはいえ、強くコミットできた研修の後にいつも感じることですが、それは自己破壊的に沈殿する疲労ではなく、次なる自分に繋がる正のエネルギーとして創造的に蓄積するとてもさわやかな疲労感です。
私の社会経験の年月を下回る年齢の方々を面前にしていることに改めて驚愕(おおぉ、こんなにオッサンになってしまったのか…)しながらも、全く違和感なく時間を共にすることができたのも、受講者に皆さんの素材としてのレベルとモチベーションの高さによるものと感謝しております。
随所で、「私のビジネススキルの源泉は、実は皆さんの先輩から授かったものである。」ことを引用しながら、予め用意されたプログラムの他に、私がその先輩から教わった原理原則をいくつも紹介させていただきました。教わったから、教える。借りたから、返す。授かったから、捧げる。人間にとってごく自然で、当たり前の感覚ですよね。法律とか宗教の前に、そのような哲学的普遍的モチベーションが我々には生まれながらに備わっています。
法律の世界も、普遍的で一貫した思想で貫かれているからこそ、法が法たる所以ですが、少なくとも一つ腑に落ちない二つの規定が知的財産権の中に共存しています。それは、特許で保護される発明と不正競争防止法で保護される営業秘密です。特許法の思想的根拠は、「人類にとって発明という行為が奨励されて無限に生み出され続けることは文明の発展を通じた社会の進化にとって不可欠のものであり、そのような発明が容易に他者に模倣されることでオリジンを生み出すモチベーションが阻害されることがあってはならないので、逆に一定期間は発明者に独占排他的権利を付与してそのモチベーションを維持する。」という考え方です。
片や、不正競争防止法の下で保護される企業秘密は、「経済的競争はフェアに行われるべき(この点では独占禁止法の思想に近い立脚点ですが)という考えに基づき、物理的な犯罪である窃盗の構成要件を援用したスキームに支えられています。経済的競争や物理的犯罪は我々人間が後付けで行っている手段としての行動に過ぎず、人としての本質的目的や衝動と比べると一段下のレイヤーに属する行為と言うことができます。
つまり、特許法は人間の本能的衝動を奨励、保護するためのものですが、営業秘密は人間の下衆な利己的な衝動を律していることになります。ここで、本能=利己という前提をおいてしまえば、同じ思想であると考えることもできるのですが、私は人間が持っている本能的自己実現欲という意味での本能と下衆な利己とは全く次元が異なるものと考えます。
前者は生態系という、より上位の生命体の中に存在する遺伝子としての人間が次の世代に進化的突然変異を期待しながら情報を伝達していくことをミッションとしているのに対し、後者は当世すなわち自分だけがとても下品な利得を得られることができれば、後のことは「わしゃ、知らん。」というスタンスに過ぎないと私は考えます。特許法は前者に依拠していますが、営業秘密の保護は後者の位置づけとしか感じられないことが私が腑に落ちない理由です。
情報を出すから情報が得られる。情報を得たから情報を出す。この本能的衝動に対する自由度が狭くなってきたことが、私が前の会社を卒業することを決意した大きな理由のひとつです。今回も、そのような私らしさを存分にさらけ出すことができる機会を与えてくださった関係諸社および諸氏に感謝するとともに、何よりもそういう私に対して最大の反応と相互作用をしてくださった受講者の新入社員の皆様に深く感謝申し上げます。
受講生の皆さんの中で本稿を読んでくださった方は、当日学習した“ストローク”の応用編の議論だと理解していただけると幸いです。
皆さんに輝かしい未来のあらんことを祈念いたします。
|

|
24年の歳月を経て |
 |
|
田代秀敏氏の「中国に人民元はない」という新書を読みました。
どうも北京への聖火リレーは平穏では済まなさそうなご時勢の下、出張先の本屋さんで手に取ったものです。中国はとにもかくにも、ないない尽くしのお国柄のようです。
企業法務の基本をたたきこまれた大手総合商社出身のボスから、“常に公正であれ”と教えられました。公正の“公”は“ム”すなわち私事に“ハ”すなわち背くことであり、“正”とは(常に判断基準が)“一”に“止まる”ことであると。
当時の私は、ボスの崇高な教えを、ひたすら畏れ入って聞くだけでしたが、冒頭の著書の中で24年ぶりにその出典を知ることになりました。
韓非子が、中国では公と私は絶対に相容れないとして、次のように説明したそうです。“私”は“禾”と“ム”の組合せですが、“禾”は穀物を、“ム”は領域を表すそうです。つまりは、穀物の自分の取り分が“私”ということになります。
その一方で、“公”は上の“八”の部分が、本来は自分の取り分である“ム”を上からちょこっとつまんで奪い去る二本の指を示しているのだそうです。中国では本来的に“公”は“私”を奪う存在だというパラダイムがあるのです。
けちょんけちょんに叱られまくったあの頃から、24年(四半世紀にちょっと満たないところがミソですが…)の歳月を経て、とても深いものに触れたような気がして、大きな余韻が残りました。
明日から三日間、そのボスの出身母体の商社の新入社員の方々の研修のお手伝いをさせていただきます。冒頭での挨拶の趣旨は決めてあります。
「皆様の大先輩からの大いなる教えのおかげで今の自分があり、その恩返しが少しでもできればという想いから今日はこの場に立たせてもらっています。皆さんも何十年か後に、同様に次の世代に何かを伝道していける社会人になってもらいたく、私はこの三日間エネルギーを出し尽くします。」
肉体的にはハードな日々が続きますが、精神的エネルギー充填度は120%です。
|

|
法人格のジレンマ |
 |
|
カテゴリは企業法務としましたが、入口が企業法務で出口がMBAのココロになる議論です。
法律行為の主体者になるには法人格が必要で、商標などの産業財産権の所有権者になるにも当然、法人格が必要となります。
日本国憲法の下で、我々日本国籍の自然人は生まれながらにして法律上の人格を有していますが、その権利能力や責任能力については民法、刑法それぞれで20歳とか14歳とかさまざまなボーダーラインが規定されています。
今となっては、(国によっては未だのところもありますが)当たり前のこの基本的人権も、歴史的に確立されたのはほんのここ数百年のことに過ぎないことを忘れてはなりません。
さて、個人個人は独立した人格を有する人間が複数集まって組織を構成したときに法律上どのように扱うかが問題になります。そこで法人格という概念が必要となってくるわけです。組織が法人格を有するためには商法や会社法をはじめとするそれぞれの法律の手続にしたがって設立や登記を行うことになります。
組織としての体はなしているものの、法律上の法人格がない集団のことを“権利能力なき社団”と称します。会社の中にあるサークルや法人登記していない労働組合などがそれにあたります。法人格がないことから、財産権をはじめとする法律行為の主体者にはなれないので、代表者や経理担当者が個人の名義で預金の管理などを行わざるをえません。もし、活動の結果として利益が発生した場合には納税が問題となります。これには様々な問題点や諸説があるのですが、本稿の趣旨とは異なるので割愛いたします。
会社の法人格は上記のような法律上の裏づけとは別に、その方向性や個性はトップが人間として体現しています。それらを共有するために、ビジョン、ミッションなどが文章として定義することは多くの会社で行われています。
ところが、非常に初期の濃い人的集合であるはずのベンチャー企業ですらトップと同じ目線で同じ立ち位置に立つことは意外とできていない現実に直面することが多々あります。先日あるベンチャー企業で、創業経営者の一人が社長に対して、社長の考え、意図が理解できない旨の発言をなさる場面に直面して驚かされました。
社員の心と頭のベクトルの方向あわせをしていかなければならない経営陣ですら社長と一定の距離があるとしたら…。
若い頃、頭ごなしに上司に叱られたときに、「私は君の人格を否定しているわけではない。君がビジネス上やった行為とその結果に対して怒っているのだ。」と何度となく言い聞かされました。以来、私の個人としての人格とビジネスは別物として扱おうという基本スタンスは身についたつもりでいますが、本当にそれでよかったのでしょうか。
創業者は、個人としての想いや人格そのものが会社すなわち法人格と一体化しているからこそ創業者であって、そうして初めて会社は成長していくものではないかと。その法人格と心と頭が分離して手足としてだけ動く仲間だったら、その人々がいくら優秀であってもでも会社は成長しませんよね。
法律的には法人格とそれに携わる人々の人格とは全く別次元のものですが、経営的にはビジョンとかミッションなどのきれいごとだけでは決して表現できない、心根というか魂というか、そういうものの強い結合が必要なのではないでしょうか。心霊主義的に表現すると、「幽体を通じて魂と肉体の強連結を図る」とでも言いましょうか。
そうすると、バリューブックやクレドなどが、“魂”に相当する部分と“幽体”に相当する部分にきっちり分解されてていて、整合性をもって表現されていないと、肉体には連結しにくいということになりますね。さっそくお手元のそれらを見直してみませんか。
|

|
時間距離の相対性 |
 |
|
私事で恐縮ですが、二番目の愚息が無事高校に合格し、昨日、母親と一緒に入学に向けた諸手続を終えたようです。
私はというと東京日帰りの強行出張の一日でしたが、まずはランチタイムを過ごした浅草ビューホテルにて中学入学と見られる親子の大集団(きっとこれから午餐の大ペチャクチャ大会が開催されるんだろう…)と遭遇。
次に向かった浅草橋界隈では、きっと体操服と教科書が入っているんだろうと想像される大袋を抱えた高校入学と見られる親子の小集団との接近遭遇。そうなんだ、昨日は全国的にそういう一日だったのだと。
さて、私が中学生や高校生の頃、自分の両親や周りの大人たちは“すげぇ大人”と映っていました。ところが今、親としてその世代の彼らと接しながら感じることは、“俺たちってそんな大人でもなく、お前らにせいぜい毛が三本生えた程度に過ぎないぜ”という感触です。
小学校一年生のときに感じた、二年生って、なんて大きいお兄ちゃんなんだろう、六年生って、とんでもないもっと大きな人という感覚。その頃の夏休みは、終わってしまえば短かったものですが、それはそれは長い40日間でした。
ところが、この齢になると40日なんて一瞬の出来事で、日に日に時間の経つのが早くなると感じるのは私だけでしょうか?お年寄りの方々は毎日暇にしているのではと考えるのは全くの杞憂に過ぎないそうです。たとえば80歳のご老人の感覚では、我々の一年が一ヶ月程度のものだとか。
アインシュタインの相対性理論は、移動速度が速くなればなるほど時間の経過が遅くなり、光速で移動した暁には時間の経過がストップするというものですが、理屈として理解することも困難ですが実際に体験することはもっと難しいロジックです。
でも、私達人間が確実に感じることができる相対性理論は、齢をとればとるほど時間の経過が早くなるという現象だとすると、元祖相対性理論は光速で時間の経過がストップするのに対し、私達の人生の相対性理論では、無限に齢をとれば時間の経過速度も無限に最大化するということになりますが、それってどんな状況か想像できますか?
きっと、それは神様や宗教の世界に通じるのだと思ったところで、これってアパログ的話題としては?ということで本日はお開きです。 |
|
|