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コレクションーその光と影−10
ロンドン・ファッション・ウィーク 今昔

パリ、ミラノ、ニューヨークのことを書いてきたので、ここでロンドンのことも少し書いてみたい。
私のロンドン・ファッション・ウィーク(以下=LFW)撮影は、1984年の第1回目から1990年までの6年間、ミラノ・コレクションの後に行っていた。

エリザベス・タワー (ビック・ベン) Elizabeth Tower (Big Ben)

初期のLFWには15人ほどのデザイナーが参加し、期間も3、4日間位で、これまで書いてきた他国のコレクションと比較すると、その規模からしても、見劣りしてたのは否めない。

しかし当時、私が感じたのは、パンク・ファッションの発祥の地だけあって、ショーの合間をぬって出かけた、”カムデン・タウン”で見るストリート・ファッションには興味津々だった。


80年代中半のカムデン・タウン (Camden Town)

多国籍の人種が和気あいあいとしたムードで集い、それぞれが主張する思い思いのファッションで通りを闊歩する姿は、若者がまさに自由にファッションを楽しんでいるという印象だった。

80年代中半のカムデンタウンでのストリート・ファッション

LFWは初期の頃、ウエスト・ケンジントンにあるオリンピアのホールで行われていたが、その後、近くのアールズ・コートに特設テントが立てられ移動した記憶がある。

オリンピア・ホール (Olympia Hall)

アールズ・コートの特設テント (Earl’s Court)

現在は、2009年からテームズ河畔の”サマセットハウス”で行われてるようだ。

1984年の第1回LFWのとき、既に注目を浴びていたヴィヴィアン.ウェストウッド(Vivienne Westwood)とパートナーのマルコム・マクラーレン(Malcoim Mclaren)が手がけるパンク・ファッションの”ワールズ・エンド (World’s End)”は一世を風靡し、世界のプレス関係者をミラノコレの後、ロンドンへ引き寄せた功労者かもしれない。
しかしそのヴィヴィアン・ウエストウッドも、その後自身の名のブランドを展開し、1983年にその発表の場をパリにも移した。

Vivienne Westwood

そして相前後し1985年には、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)がLFWにデビューしたが、その才能を見込まれ89年3月には、パリ・オートクチュール組合からの招待でガリアーノも舞台をパリへと移した。
その後、ガリアーノと同じロンドンのセントラル・セント・マーチン芸術大学を卒業したフセイン・チャラヤン(Hussein Chalayan)、ステラ・マッカートニー(Stella McCartney)、そしてアレキサンダー・マックイーン(Alexander Mcqeen)と言った有能なデザイナーたちが、ほんの数シーズンでLFWから、発表の場をパリへと移している。

結局、有能なデザイナーの大半がLFWからパリへと移動したことにより、世界のプレス関係者の脚も自然にロンドンから遠ざかってしまったというのが、私を含めて大方の理由ではなかろうか。

しかし私が最も悲しく残念に思ったのは、2010年2月に突然この世を去ったマックイーンの死だった。生前、個人的に接する機会はなかったが、その優れた才能はもちろんのこと、シャイで優しそうな人柄からしても、今もって私は彼の死をなかなか受け入れることができない。

2009/10a/w A.Mcqeen Paris collection

亡くなる前年の2009/10秋冬パリ・コレクションで見せたその才能は、それまで見たどの作品よりもすばらしかったと私は今でも確信してる。

Alexander Mcqeen

こうして見ると、私はLFWの状況が東京と類似してるようでならない。東京でも数シーズン、コレクションを発表したデザイナーがパリへと舞台を移してしまう。もちろん長年コレクションを撮影してきた私には、少なからずとも彼等の心情は理解できる。
クリエイターである以上、当然上を目指して進むのが、ごく自然で当たり前のことだから。

テムズ川 (River Thames)

やはり何をさしおいてもパリ・コレクションは、ファッションに携わる人には憧れと、一度は挑戦してみたい魔力を秘めているのかも知れない。
 2014/09/29 00:05  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影−9
三宅一生と空母イントレピッド

前回、私の初めてのニューヨーク・コレクションのことを書いたが、このときは、ニューヨークで三宅一生が5年ぶりにショーを開催したときでもあった。
それは” 83年春夏ISSEY MIYAKEコレクション”と「プランテーション」という新ブランドの発表もかねた、いわば一生ブランドのジョイントショーだった。

自由の女神像

11月4日、その日、有名百貨店の”バーニーズ”の4カ所のショー・ウィンドーはすべて三宅一生の服で飾られた。

会場は、ハドソン河畔に浮かぶ退役空母イントレピッドの中にある「シー・エアー・スペース・ミュージアム」で、ショー会場としては異例なこともあってか、開催以前からニューヨークでは話題となっていた。

現役を引退したとはいえ、さすが空母とあって、その甲板には飛行機が何機もならびその大きさをうかがわせた。
また館内は重厚な雰囲気が威圧感を漂わせていた。

そして鉄製の重い扉が開くと、そこには市民コーラス・グループの人たちが座っていて、観客が怪訝な顔をして会場に入って来るという、何とも意表をつく演出でスタートした。

イントレピッド海上航空宇宙博物館 (空母イントレピッド)

そして何よりも私が驚いたのはショー当日、開始時間が近づくと、一生を支持する多彩な顔ぶれが次々とやって来たことだった。
画家のポール・デイビスやアンディ・ウオーホル、歌手のダイアナ・ロスやミック・ジャガー、そしてグレース・ジョーンズなどである。また著名な舞踏家アルヴィン・エイリーの姿もあった。

アンディ・ウオーホル

パリコレ参加以前に、三宅一生がニューヨークでショーを開いていたとはいえ、
その多彩な顔ぶれにただただ圧倒されるだけだった。

前回、ワシントン・ポスト紙のニーナ・ハイドのことを書いたが、私が彼女の家でお世話になったときの夕食の席で、彼女が、「彼は必ず偉大なクリエーターになる!」と言った言葉が、図らずもこのとき私の脳裏をよぎった。

83s/s-Issey Miyake collection

また前年の81年11月にも、私はパリコレ終了後、三宅一生と13人の日本人モデルと一緒に、オランダのアムステルダムへと飛んだ。

三宅一生は日本の文化や伝統を紹介するイベントに招待され、自身の12年間
(1970~82) の作品を紹介することになっていた。
市内を歩くとあちこちに一生のポスターが貼られ、新聞には「サムライ、来る!」の見出しが踊っていたのを思い出す。

三宅一生

世界的に活躍する日本人を目の当たりにすると、私自身、海外での仕事で、辛く苦しいとき、何度彼らの活躍に励まされたか分からない。

その後、私のニューヨーク・コレクションの撮影は85年を境に、東京コレクションとの開催時期が重なりやめざるをえなくなった。

ハドソン川の夜景

そして1993年、NYFWは、マンハッタン中心部のオフィスビルに囲まれたブライアント・パーク(Bryant Park)の特設テントを主会場に、世界のコレクションに先駆けてショーが行われるようになった。
 2014/09/21 18:38  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影−8
初めてのニューヨーク・コレクション

つい先日、2015年春夏ニューヨーク・ファッション・ウィーク(以下NYFW)=(コレクション)が、各国のコレクションの先陣をきって終わったばかりだが、私が初めてN.Yコレクションへ行った80年代は、最初がミラノで、次がロンドン、そしてパリの後にニューヨークが行われていた。
また今でこそファッション・ウィークという名前が一般的だが、当時はまだコレクションとよんでいた。

エンパイア・ステート・ビル

パリ、ミラノコレクションを経験した私は、NYFWの撮影にも興味がわき、以前からパリコレの会場で親しくしていたアメリカの業界紙記者で、写真も撮っていたスーザン・ロランツに相談した。

カメラ席でいつも隣合わせのスーザンは、笑顔が絶えない明るい性格の女性だが、ただ彼女の話すアメリカなまりの早口英語は、私には理解するのが難しく、いつもゆっくりしゃべってくれと言っていたのを思い出す。
そんな彼女が紹介してくれたのが、幼なじみで親友のニーナ・ハイドだった。

私のNYFWへの実現にはこの二人の支えがなかったら、実現は難しかったと今でも思っている。

スーザン・ロランツ

ニーナはアメリカを代表するワシントン・ポスト紙の優秀な記者で、世界的にも有名なナショナル・ジオグラフィック誌の記者も兼任していた。
もの静かで、いかにもインテリを思わせるタイプのジャーナリストだった。

心強い二人の味方を得た私は、半年後の82年10月、パリコレが終ると、次のNYFWまで1週間しかないため、帰国しないでそのままN.Yへとわたった。

JFKの空港から乗ったタクシーがマンハッタンに近づくと、写真や映画でしか見たことがなかった摩天楼が私の目の前の覆い被さるかのようにせまってきた。
私は子供のように眼を輝かせ、胸が高鳴るのを憶えた。

80年代のマンハッタンの摩天楼 (中央のビルはまだPAN AMビルだった)

ホテルで荷物をおろすと、私はすぐさまスーザンへと連絡をとった。
すると彼女は、ニーナからの伝言で、NYFWが始まるまで時間があるので、私をワシントンの自宅へ招待したいとのことだった。

ニーナ・ハイドと私 (ニーナの自宅で)

翌朝、私はアムトラック鉄道の列車でワシントンへと向かった。
ニーナはわざわざ駅まで私を迎えに来てくれていた。
彼女の家は、ジョージ・タウン大学近くの閑静な住宅街にあった。そして
玄関で出迎えてくれた彼女の夫はやはり学者肌の物静かな人だった。
3日間の滞在中、彼女は職場のワシントン・ポストの本社をはじめ、国会議事堂やスミソニアン博物館等を案内してくれ、ポトマック河畔を一緒に散歩してくれた。


(左)合衆国議会議事堂 (右)ホワイトハウス

そして2日後にNYFWを迎えると、私はニーナより一足先にニューヨークへと戻った。
初日からいきなり大物デザイナーのラルフ・ローレン(Ralph・Lauren)のショーが控えていた。
私は下見をかねて、ショー会場のラルフのオフィスを訪ねた。
ニーナをはじめ、周囲の人からもラルフは入場するのが難しいというのを聞いていたからである。
そしてショーは、会場が小さいため2回に分けて行われ、ニーナが2回目に来ることも別れる際に彼女からきいていた。

当時、NYFWは特定の会場やテントといったものはなく、各ブランドやデザイナーがそれぞれの場所で開催していたが、FITやパーソンズ(PARSONS)といった服飾、デザイン系の学校で開催されることも多かった。変わったところでは元、教会だったところやディスコ、レコード会社のスタジオや、ソーホーなど、ダウンタウンのロフトもよく使われた。

パーソンズ ・デザイン学校(当時)

ショー当日、早めに会場へ行きプレス担当者に、持参した媒体資料を差し出すと眼もくれず、全く取り付く島もなかった。それどころか入口が邪魔だから早く出て行ってくれと追い出される始末だった。
腹立たしさと悔しさでいっぱいだったが、二回目にニーナが来るのを待つしかなかった。

一回目のショーが終わると、先程のプレス担当者が出入口にいる私を見つけ、
「まだこんなところにいたの!」と顔を真っ赤にして怒っている。私は無言でただニーナが現れるのを待っていた。
ほどなくして現れたニーナは、私の顔を見ただけですべてを解ったのか、
「私の後から付いて来なさい」と言う。私は黙って彼女の後に従った。
そしてニーナーが会場に入ろうとすると、プレス担当者は私には見せたことがない
笑顔と甲高い声でニーナを迎え入れた。そして後ろに隠れるようにいた私を見つけると、先ほどの笑顔はまた元の怖い顔に戻り、
「あなたまだここにいるの!何してるの、帰りなさいよ!」
すると前を歩いていたニーナが振り返り、「ノー、ヒー、イズ、ワシントン・ポスト!」と、ごく自然に諭すように彼女にいうと、今度は何事が起きたのかとばかり驚いた彼女は、私に詫びた。

ワシントン・スクエア公園

ショー会場で、特に有名ブランドや人気ブランドに入るのは、どこの国でも厳しく難しいので、決して彼女が悪い訳ではないのは私自身が一番よく知っている。
しかしこのときほど、有力メディアと著名なジャーナリストの力をまざまざと見せつけられたことはない。

念願のショー会場へ入ることができた私が、遠慮がちにスーテージの片隅に陣取っていると、先ほどのプレス担当者が来て、
「ここでいいの?、正面のあそこがもっといいわよ!」と、ニューヨーク・タイムス、W.W.Dと並んで ”ワシントン・ポストの私”は、初めてのNYFWの写真を、これ以上の場所はないというところで撮らせてもらった。

80年代のダウンタウンの街並み

その後3年間、パリコレの後、NYFWの撮影をつづけていたが、東京コレの開催と同時期になったため、やめざるを得なくなった。

その後もパリコレで、ニーナにはよく会っていたが、突然姿を見なくなり、その後、スーザンから彼女の死を知らされた。私はあまりにもショックでかえす言葉もなかった。

生前、ニーナが私に、「あなたは一度、ケニアに行きなさい。」と言ったことがある。亡くなった今、その真意を聞くことはできないが、きっと毎日を忙しく過ごす私に、雄大な大自然のすばらしさを見て少し落ち着きなさいと、そう言いたかったんだろうと勝手に思っている。残念ながらケニア行きは未だに実現してないが、、

スーザンはその後もパリコレへは来ていたが、さすがに疲れるのか、写真を撮るのを辞め、ファッション・ディレクターとして活躍していたが、その後引退した。
 2014/09/14 00:10  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影ー7
カメラマンのショーボイコット

30年余のパリコレ撮影で、私はカメラマンによるショーのボイコットを三度度経験している。
最初のボイコットは80 年代中半に、パリコレ会場がルーブルの中庭、クール・カレから一時期、隣のチュルリー公園へ移動したときジャンポール・ゴルティエ (Jean-Paul Gaultier=以下JPG)のテント会場でおきた。


Jardin des Tuileries (チュルリー公園)

それはカメラマンとJPGのプレス担当者の入場をめぐる些細なことがきっかけだった。しかしあまりにもプレス担当者の横柄な態度に、カメラマンの一人が突然、「ボイコット!」と叫ぶと、回りにいたカメラマン全員がそれに呼応するかのように入場を拒否し、ショーをボイコットすることに同意した。

すると東洋人らしきカメラマンがひとり入ったとの連絡が有り、それが日本人だという事が判明すると周囲にいたカメラマン達は、私と側にいた日本人カメラマンに、中に入ってすぐ連れ戻して来いと迫って来た。
私は恥ずかしさと腹立しさで中へ入ると、彼に一緒に外へ出よう誘った。すると横にいた編集者が「うちは関係ない!」と平然と言い放った。
私は思わず「カメラマン全員で決めた事だから協力して欲しい。ここで日本人だけが裏切ることはできない!」と言った。
すると当事者のカメラマンは悟ったかのように「僕も出ます!」と自らそう言うと私と一緒にその場を離れた。

入場を待つカメラマン (記事とは関係なし)

外で動向を見守っていた大勢のカメラマンたちは、私たちの姿を見つけると、皆が拍手と口笛で迎え入れたくれた。そして何よりも私が嬉しかったのは当事者の彼が「ありがとう!僕も出て来て良かったです」と言ってくれたことだった。


二回目のボイコットは95年3月、シャイヨー宮で行われたクロード・モンタナ(Claude Montana) の95/96秋冬コレクションだった。
エッフェル塔が真正面に見える、パリでも屈指の観光名所だ。

La tour Eiffel (シャイヨー宮からのエッフェル塔)

例によってカメラマンは会場入口に1時間も前から列を作って並んでいる。そこへ4、5人のテレビクルーがやって来た。彼等は胸に下げたカメラパスを入口の警備員に示し入場許可を確認した。彼等が下げているカメラパスはバックステージパス(以下=BSP)と呼ばれるもので、事前に楽屋での撮影を許可されたものである。

パリコレでは一般的にコレクションを撮影するカメラマンパスと、楽屋専用でヘア、メイクアップ、アクセサリート等を撮影するBSPの二種類がある。
そしてBSPは基本的にはショー撮影のカメラマンより先に入場できる。誤解されると困るのであえて断っておくと、BSPが通常のカメラマンパスよりも優先されるということではない。楽屋での撮影はショー本番前でないと難しいからである。

Palais de Chaillotシャイヨー宮 (左の建物)

しかし警備員はどうしたことかテレビクルーを中へ入れようとしない。そしてクルーがしきりにBSPの説明をしても聞こうとしない。
業を煮やしたクルーが強引に入ろうとしたその瞬間、警備員の右手がクルーの一人の顔面にあたった。

ことの一部始終を見ていたカメラマンたちが、思わず警備員に詰めより抗議したが彼は詫びるようすもなく平然としていた。
入口のただならぬ騒々に、何事が起きたのかとばかり慌てて飛んで来たプレス担当者は事情をのみこめないのかしきりに言訳ばかりを繰り返していた。
そして痺れをきらしたカメラマンから自然発生的に「ボイコット!ボイコット!」と声があがると、もう誰一人として会場に入ろうとする者はいなかった。

既に会場内には大勢のプレスやバイヤーの人達が、カメラマンの姿が見えないただならぬ気配に異変を感じ取っていた。そしてあとで事情を知った多くのジャーナリストはカメラマンの取った行動に理解をしめしてくれた。

ただ全く事情を知らないモデルたちは、ショーが始まってカメラマンがいない事にはじめて気がついたという。いつものフラッシュの雨を浴びることもなく、ただ淡々とステージを歩いていた姿がどこか寂しげだったという。

Claude・Montana (1985-s/s collection) クロード・モンタナ (左)

翌日、フランスの有力新聞のファッション欄に、他のデザイナーのコレクション写真に混じって、モンタナの箇所だけがイラストで掲載されていたのが印象的だった。

ボイコットの際、メゾン(ブランド)のビデオとカメラだけは対象外で彼等が撮影した写真が配信されたはずなのだが、編集者がカメラマンの意図を汲み、あえてイラスにしたとの話をきいたときはなかなか粋な事をやるなと思った。

そして99年3月、それはまたしてもジャンポール・ゴルティエの秋冬コレクションのときだった。会場は ”デコラティフ”で、主会場のカルーセルのすぐ上にある然程広くないホールである。
ここでやるんだったらすぐ下にある広い会場でやってくれればと思ったのは私だけではないはずだ。ゴルティエらしい皮肉めいたものを感じた。

Les Art Decoratif (デコラティフ-右側の赤い垂れ幕、左はカルーゼルの入口)

当時、人気絶頂のゴルティエがこんな狭いところでショーをやる事自体に無理があり、私は会場を知った時から何故か嫌な予感がしてた。

3月のパリはまだ寒く、ましてこの夜は生憎の雨だった。
ただでさえ寒いのに雨のなかで長時間待たされるカメラマンは皆、苛立つていた。
そして先頭のカメラマンがやっと入場したかと思ったら、ものの数分で会場から飛び出してきた。
「カメラマン席が狭く、とてもこんな人数(約200人)は入れない!」と興奮したかのように叫んでいる。

そしてゴルティエのプレス担当者にカメラ席を広くするよう皆で交渉したが、聞き入れるそぶりはない。それどころかプレス担当者のあまりにも理不尽な態度にカメラマンの多くからボイコットの声があがった。

日頃は互いがカメラ席をめぐって、時には殴り合いの喧嘩までするが、仲間や
理不尽な事には驚くほど皆がひとつにまとまるのも、このコレクション撮影に携わるカメラマンに共通してることである。
それはともに苦しみ戦ってきた者にしか理解できない、いわば戦友なのである。

 
(左)ショー開始前のカメラ席/(右)有志の打上げパーティ

雨にうたれ体の芯まで冷えきった重い体をひきずって、それぞれの家路に向かうカメラマンの後ろ姿には、ショーを撮れなかった悔しさよりも寂しさがにじみでている。

そして印象的だったのは翌シーズンから数シーズン、ショーのフィナーレでゴルティエがステージに姿を見せると、カメラマン席から一斉に、ウー、ウー、ウーと、大ブーイングが浴びせられていたのが今も忘れられない。

Jean-Paul・Gaultier (2007-s/s collection)ジャンポール・ゴルティエ

しかしこのブーイングは、決してゴルティエを誹謗するものではなく、カメラマンからゴルティエに対しての皮肉をこめた愛のメッセージなのである。
80年代から現在まで、長きにわたってパリコレをリードしてきたゴルティエに、すべてのカメラマンは、畏愛の念をもっているから、、、

 2014/09/08 00:05  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影ー6
パリコレの爆弾テロと湾岸戦争

ミラノの後は、再びパリコレの話にもどろう。
1987年、この年はA・アライア(Azzedin Alaia) のボディーコンシャスが全盛を極めていたが、その後はほっそりとした女性の優しさをテーマに、ナチュラルラインへと変化を見せた過渡期ともいえる。
またミラノコレで人気だったロメオ・ジリ(Romeo Gigli)が、舞台をパリへと移したのもこの年である。

ルーブル美術館とセーヌ河

しかし、こうしたファッション界の ”女性の優しさ”の表現とは対照的に、パリコレでは爆弾テロを予告する衝撃的な事件がおきた。

コレクション会場はこれまで以上に厳しい入場制限が行われ、それはまさに空港の入国審査なみで、パスポートやIDカードの提示を求められ、カメラマンに至っては所持品のすべてをチェックされる有様だった。
その結果、ただでさえ遅れがちなショーの開始時間は、1時間はおろか2時間近く遅れる事もあった。
こうした事態に嫌気がさし一部のコレクションをキャンセルしたり、事前に察知したプレスやバイヤーのなかにはパリコレヘの参加を取りやめる人もいた。

ルーブル中庭のパリコレ会場

そしてそれまでは存在しなかったカメラマン証がサンディカ(パリ・クチュール組合)から発行されるようになったのは、確かこの事件の後からである。

サンディカ発行の各シーズンのカメラマン証

しかし1991年3月のコレクションでは、事態はさらに深刻であった。
前年の8月にクエートに侵攻したイラクヘ、今度は1月に多国籍軍がイラクへと侵攻したからである。
91/92秋冬コレクションは、まさに湾岸戦争のまっただ中で開催されたのである。
それは私の30余年のパリコレ人生で最も厳しく、そして危険さえも感じるものであった。

会場入口のテレビクルーとカメラマン

普段は40余か国からの報道陣やバイヤーで賑やかな会場は、この時ばかりは空席も目立ち、何よりもいつもいる仲間の姿が見えないという寂しいものであった。そして多国籍軍に参加してる当事国のカメラマンは、その多くが顔を見せる事はなかった。そして代わりにパリコレに来たのは、私と同じフリーのカメラマンばかりだった。
行きたくとも、会社の命令で行く事ができなかったというのが大方の理由である。それは報道関係者のみならず、大企業が多いバイヤーに至っても同じ事であった。

機材チェックを受けるカメラマン

表面的にはどこの会社も社員の身の安全が第一とはうたってはいたが、事故や事件に巻き込まれた際、会社としての責任と社会的批判をかわす狙いがあった事はもちろん否めない、、

幸いな事に87年の爆弾テロも、91年の湾岸戦争のときもパリコレは緊張の中にも何ごともなく無事に終わった。
図らずも戦争の恐さや醜さ、辛さを若干たりとも身をもって知る事が出来、貴重な体験だったがもう二度とは味わいたくない。

プラスティックのゴミ袋 (左下)

その後パリの路上からは長年わたって使われてきた円筒形の金属製ゴミ箱が全て取り払われ、外側からも中身が見える透明のプラスチック袋にすべて取り替えられたのはこうした爆弾テロを警戒してのことだった。

以前の円筒形金属製ゴミ箱 (右端下)

パリコレの後、スペインへ行く際にオルリー空港のカウンターで手続きをしてると突然、大勢の警察官と兵隊らしき人達が入って来た。そしていきなり不審物が発見されたので、遠くへ離れてくださいとのアナウンスがあった。慌てて避難すると、すぐさま警察官が不審物を中心に半径50メートルほどにローピングを行った。そして再度離れてくださいとのアナウンスの後、狙撃手が機関銃でその不審物を打ち抜いた。
結果は爆発物ではなく単なる荷物の忘れものだったようだ。
後で荷物を取りに来たアラブ人風の男性がこっぴどく叱られていたのを思いだす。
 2014/09/01 00:05  この記事のURL  / 

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プロフィール


大石一男 (おおいしかずお)
KAZOU OHISHI


写真家・フォトジャーナリスト

長崎市生まれ。大学卒業後、テレビ番組の制作に8年間携わる。1979年に初めてパリコレクションを撮影。以降、ミラノやロンドン、ニューヨーク、東京、ソウルと世界のコレクションを長年に渡り撮り続ける。 東京ファションウィークには、第1回目からオフィシャルカメラとして参加。

2013年、第31回「毎日ファッション大賞」鯨岡阿美子賞受賞。著書に「カメラマンのパリコレクション」(読売新聞社)、おもな写真集に「Paris collection 1981〜2000」(新潮社)がある。

大石一男 オフィシャルサイト
http://www.kazouohishi.com/


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