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コレクションーその光と影ー5
飛行機を停める    

前回につづき今回もミラノでの話です。
ミラノコレクションは、およそ1週間で70〜80人のデザイナーがショーを行い、1日に平均10前後のショーが行われます。私の場合、撮影するのは (可能なのは) 30人前後です。実際、総てのコレクションを一人で撮影するというのはほぼ不可能です。何故ならばコレクションの撮影は、基本的には1媒体にカメラマンは一人で、ショーはおよそ1時間ごとにあり、会場はフィエラだけでなくミラノ市内全域だからです。もちろんアシスタントなどはもってのほかです。
ただし有力メディアの中には複数の新聞、雑誌等を発行してる関係でその媒体ごとにカメラマンを申請してるところもあります。

Fiera di Milano (フィエラの 2006s/s ミラノコレの主会場入口)

そして何よりも大変なのが、それぞれのショーごとに移動する交通手段です。パリではメトロが発達してるので然程の不便は感じませんが、ミラノではそう簡単にはいきません。
タクシーに至っては、拾えればラッキーといったところです。

G.V.EmanueleU(ガレリア・V・エマヌエルU)

また各国のコレクションでは当然のこととして、絶対的に撮影しなければならない、いわば必須条件的なコレクションがあります。だからスケジュールがでると、そのコレクションを軸に、そこからその日の撮影予定をジャーナリストと決めるわけです。
もちろん撮影したくても、相手方からの招待状や許可が下りないこともままあります。この時が一番落ち込み疲れます。
また運良く招待状がきたとしてもこうした重要なデザイナーほど、フィエラの主会場ではなく、それぞれが独自にプライベートの会場でショーを行うため、前のショーが終わるやいなや真っ先に会場を飛び出しタクシー乗り場へと駆けつける訳です。

Castello Sforzesco (スフォルツエスコ城)

'80〜'90年代、ミラノの3Gといわれた、G・アルマーニ、G・ヴェルサーチ、GF・フェレがその代表です。フェレは私の記憶ではフィエラで2〜3回やりましたが、アルマーニとヴェルサーチがフィエラでショーをやった記憶はありません
今ではアルマーニさんだけが健在ですが、いつまでも元気でやって欲しいものです。

Duomo di Milano (ドウオモ)の夜景

さて前置きが長くなりましたが、今日の本題です。
ミラノが終わると、いよいよパリコレです。私は長い間、ミラノからパリへの
移動は朝9時40分発のAF1213便と決めていた。

その日もいつもと同じように、前夜予約していたタクシーが朝7時にホテルへ迎えに来ると、リナーテ空港へはいつものように30分ほどで着いた。
すでに出発カウンターには列ができている。
「おはよう!おはよう!」、周囲はコレクション関係の顔なじみの人達ばかりである。やっと自分の番にきたのでパスポートとチケットを差し出すと、
いかにもゲイの人らしいカウンターのスタッフが、両手を顔の前で併せ、首を傾げながら、「ああ、オオイシさん、すみません!、次のフライトにしていただけませんか?!、ダブルブッキングです!」

予期せぬ言葉に、「だめです!絶対この便じゃないと、パリですぐ仕事があるんです!」私は反射的にそう言った。

そしてそんなやりとりをしている私の背後から突然、
「大石さん、どうしたの?」と声がする。振り向くと知人のYさんが立っていた。彼は身長180センチ、体重120キロの巨漢である。
私がダブルブッキングされ困っていると話すと、彼は何を思ったか、いきなり日本語でゲイの彼にまくしたてた。余りの勢いに圧倒されたゲイのお兄さんは、「モメント(待って)、モメント!」と言うと、いきなり受話器をもって必死の形相で何やら早口で話しだした。
そして次の瞬間、私に首を大きく傾げ、差し出した手のひらの指を大きく曲げると、スーツケースをもって連いてこいという。慌てて私は彼の後に従った。

エレベーターを降り、行った先には誰も乗っていないリムジンバスが停まっていた。彼は私を誘導すると一緒に乗り込んで来た。どうなっているのか不安に思う私の思惑とは裏腹に、バスは滑走路前の駐機場めがけて走り出した。そして飛行機のすぐ横に停まったバスから私は降ろされると、急かされるままそのままタラップを上り機内へと入った。

何と予定のフライトより一つ前の飛行機に乗せらされたのである。

しかし私は機内に入った途端、異様な雰囲気を察した。乗客の冷たい視線と迷惑そうな顔が私にははっきりと解った。
座席に着くと、隣の席にいた売れっ子モデルのイヴ・サルヴォイユが、
「遅れてる人がいるので待っている、とのアナウンスがあったのよ。あなただったのね!」
えっ、ちょっと違うけど、まあ良いかと私は思った、、、

サンディカ(組合)発行の各シーズンのカメラマン証 (Paris)

各メゾン発行のカメラマンパス
(Paris)
参考までに私が何故9時40分発の飛行機にこだわるかというと、決して意地悪してるのではなく、丁度昼すぎにパリのホテルへ着き、運がよければそのままチェックインし荷物から解放される事はもちろん、何よりも撮影に大切なカメラマン証をパリコレの事務局へ受けとりに行かなければならないからである。
そして夕刻からは、今度はパリコレクションの撮影が始まる、、、


 2014/08/25 00:05  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影−4
ミラノの厳しい洗礼

パリコレの話が続いたので、ここでミラノコレクションの話もしなければならない。
パリに遅れること1年、1980年3月、私のミラノコレの撮影は始まった。パリコレで若干の経験はあったものの、初のミラノでの仕事は期待と不安がいりまじり複雑なものがあった。ましてミラノコレはパリコレより先に開催され、当時、飛行機でアンカレッジ経由でパリに行き、そこで乗り換えてミラノへ着く頃はほぼ1日が経過していた。

Duomo di Milano (ドウオーモ)


中央駅のすぐ近くにあるこじんまりとしたホテルに荷物を解くと、パリでもそうだが真っ先にやることは、先程フロントで手渡された封筒の束をベッドに座り込んでチェックする事から始める。

事前にホテル宛に申請していた、明日からはじまるコレクションの招待状である。いつものことだが、沢山来てるからといって安心はできない。事前に送られてくるもの中には重要なものが得てして少ないからである。
重要で有力なメゾン(ブランド)ほど、私たち(報道関係者)を焦らすかのようにコレクション前日や、時には当日の朝、バイク便で届けられることも多いからである。

一通り、招待状を曜日ごとに仕分けると、どうしても見たかったドウオーモへと地図を片手に向かった。


G.V.EmanueleU(エマヌエル アーケード)


天を突き刺すようにのびた尖塔がその壮大さを感じさせる。そしてドウオーモを後に、すぐ横のエマヌエルアーケードを通り、正面のスカラ座を見物してホテルへと戻った。
La Scala (スカラ座)


ルームキーを受け取る際、フロント係が、”生憎ですが明日はゼネストです“という。最初は意味がわからず、私が首を傾げていると、公共機関の乗り物は総て動かないという。私は一瞬戸惑ったが、それでも何とかなるだろうと軽く考え部屋へと戻った。

そして翌朝、初めて体験したゼネストは私の想像を遥かに超えていた。

通りには、若干の自家用車らしき車が時折走るだけで閑散としていた。
私は初めて事の重大さに気づき慌ててホテルへ引き返すと、フロントのスタッフに車を何とかならないかと懇願したが、彼等はなす術がないとばかりに両手を広げて首をすくめるだけだった。そして私は再度通りに出るとなりふりかまわず走ってくる車に両手を広げて止まってくれるよう合図した。

(写真左)ゼネスト中のミラノ・フィエラ(FIERA)周辺。車が全く走っていない (左側の時計は午前11時を指している)/(写真右)普段の Fiera di Milano (ミラノ・フィエラ周辺)


走りながら運転席から怒鳴るもの、上手に私を避けて走り去るもの、30分もたっただろうか一台の車が止まってくれた。しかし方角が違うというのでそのまま走り去ってしまった。

ショー開始時間はまもなくだ。諦めかけたとき私の前で車が止まった。
彼は左手で私に乗れと合図すると黙って走り出した。私はバッグからあわててショーのチケットを取り出すと彼に行き先を指差した。
「ああ、フィエラね!」彼は一言だけそういうと車を走らせた。私は何も喋る事が出来ず、ただ「グラッツイエ、グラッツイエ」(ありがとう)と繰り返していた。そして20分も走っただろうか、大きな建物の前で車は止まった。

1983年3月 Fiera di Milano (フィエラのミラノコレ主会場入口)


「さあ、ここだ、急いで行け!」、彼はそう言うと会場入り口を指差した。私が慌ててお金を差し出すと彼は受け取らず、笑顔で「チャオ!」と言うと走り去ってしまった。
彼の車を見送ると、私はショー会場目がけて一目散に駈け出した。

例年の Fiera di Milano (フィエラのミラノコレ主会場入口)


会場近くまでくると音楽が聞こえてきた。既にショーが始まっているのだ。チケットを提示し中へ入ろうとすると、屈強なセキュリティが両手をひろげ、もうショーが始ってるから駄目だという。私はしつこく何度も食い下がったがそれでも聞き入れてはもらえなかった。
するとそこへもう一人のカメラマンがやって来た。そして今度は二人で強引に頼み込んだがだめだった。
そして暫くするとどうしたことか、そのセキュリティがチケットをよこせと私たちに手のひらを差し出した。
やっと入れると喜んでチケットを差し出すと、彼はこれみよがしに、二枚合わせたチケットを高く翳すと細かく切り裂いてしまった。
そして次の瞬間、彼は何を考えたのか私ら二人に入れと手で合図した。

会場から流れ出る音楽がひときは大きくなり、ショーのフィナーレが近づいている事がわかった。
私は急いでカメラを取り出すと、無我夢中でシャッターを切りつづけた。
フィナーレには、出演したモデル全員が最後の衣装をつけて出てくるからである。もちろん一列に並んで大勢出てくる訳だから満足できる写真など撮れはずがない。せめてもの最低限の写真だけでもと、、、

初めてのミラノコレクションの撮影は、一生忘れる事の出来ないほろ苦いものとなった。そしてこの日、その後の4つのショーは何とか撮影できたが、今回のストライキは私にいろんな事を教えてくれた。とくにこうした突発的な出来事に対処できる語学力の必要性を痛感させられずにはいられなかった。

その後もミラノでは何度かストライキには遭遇したが、このときの経験のお陰で以後は余り苦労した記憶がない。

ただひとつ飛行機のストの際、8時間にも及ぶ長い待ち時間と、再三の飛行場変更で大失態を演じた事がある。この話は又いずれの機会に、、、

 2014/08/17 21:21  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影−3
ステージのパネル倒壊

前回、客席と楽屋とを遮断するパネルに開いた”穴”の話をしましたが、今回は、まさしくそのパネルそのものの話です。

パリコレでは1980年代の一時期、ルーブル美術館の中庭にたてられた、大中小の3つのテントで、およそ10日間にわたってコレクションが開催されていた。
そしてそのシーズンのトリ(最後)を飾るデザイナーは、サンローラン(YSL)かケンゾー(KENZO)と決まっていた。

ルーブル美術館(まだピラミッドが建っていない)

ルーブル美術館とピラミッド

パリコレは一日に平均8〜10のショーがルーブルを中心にパリ市内のあちこちで行われる。そしてカメラマンたちは決まって最終日に、そのシーズンでの互いの健闘と、次回での再会を願って記念写真を撮るのが恒例となっていた。

本来は最後のショーの直前に写真を撮るのだが、本番前の慌ただしさや、カメラマンの中にはコレクション終了と同時に帰国する者もいる。また各人によって撮影メゾンが異なるため、極力皆がルーブルに集まる時間帯にテントの側で撮影していた。

ルーブル中庭に建てられた両サイドに見える青テントとプレスオフィス

そしてそのシーズンのトリは ”KENZO” のショーだった。

いつもは屋外で撮影する記念写真をこの日は前後のショーの関係で、屋内の、それもこれからショーが始まろうとするステージ上である。

ルーブル中庭での記念撮影

ショー本番前のステージには、汚れないように事前に布地のカバーがかけられている。カメラマンは普段は上がる事のないそのステージに、少し照れくさそうに上がって行った。
そして皆がステージ上に勢揃いすると、突然どこからか「ジャポネ(日本人)はいないか?」と叫ぶ声がする。誰かが「カズがいる!」と言うと、
「カズ、お前は日本人だからケンゾーを知ってるだろう!?、折角だからケンゾーと一緒に記念写真を撮ろう!」と言うのである。
私は一瞬、躊躇ったが皆の勢いに押されるまま、しかたなく楽屋のケンゾーさんのもとへ行った。

当時既にケンゾーは、世界の田賢三としてパリコレでも超人気デザイナーとして活躍していた。そして何よりも、その素朴な人柄が世界中の人々から愛されていた。まさに名実共に世界のケンゾーである。

幸い、私はケンゾーさんとは面識もあり、パリの自宅にも招かれたこともあったのでさほどの緊張感はなかった。
カメラマンとの記念撮影をお願いすると、一瞬はにかんだ様子をみせたが快く応じてくれた。

しばらくしてケンゾーが楽屋から現れると、ステージ上のカメラマンは興奮し皆がケンゾー、ケンゾーと叫び喜びを表していた。

ショー開始には未だ早く客席には一部の人しかいなかったが、それまで会場でカメラマンの騒ぎを冷ややかに見ていた人たちが、ケンゾーが現れると我れ先にと競ってステージに上がってきた。
いつもは写真におさまるだけの私だったが、このときばかりはケンゾーさんに声かけした手前、写真まで撮らされるはめになってしまった。

そして事件はまさしくそのときに起こった。

応急処置の布を片手にケンゾーさん(前列中央)との記念撮影

大勢の人達で狭いステージ上は脚の踏み場もなく、人々が寄りかかった重圧でパネルが突然倒れてしまったのである。するとそれまでステージ上にいた人達は蜘蛛の子を散らすかのように皆逃げ出してしまった。

無惨にも倒れてしまったパネルの向こう側には、これから始まるコレクションの作品が客席からも見ることができた。

事の重大さに、楽屋から責任者が顔を真っ赤にして飛び出してくると、ものすごい剣幕で私のところへ来て怒鳴りだした。
その一部始終を見ていたケンゾーは責任者のところへ来ると、
「彼が悪いんじゃない」と私を庇うと、応急処置を施すよう指示し、ステージに残ったカメラマンたちと一緒に記念写真におさまってくれた。

           昨年末、来日の際の記念写真

幸い倒れたステージのパネルは、ショー開始に少し遅れただけで復旧することができた。

この一件でカメラマンはますますケンゾーのことを尊敬し、好きにならずにはいられなかった。







 2014/08/11 17:30  この記事のURL  / 

鎌倉鶴岡八幡宮「ぼんぼり祭り」
世界平和を祈って

昨日は葉山文化園で夏期モデルセミナーでの撮影後、参加したモデルさん7人と一緒に鶴岡八幡宮で6日から9日まで開催の、鎌倉の夏の風物詩ともいえる「ぼんぼり祭り」に行ってきました。

参道の両側に並んだぼんぼり

鎌倉近郊在住の文化人をはじめ、各界の著名人の方々の書画やメッセージが、およそ400のぼんぼりに仕立てられ、参道の両側に立ち並んでいました。

ぼんぼりに灯がともされる

ファッションプロデューサー大出一博氏の画とモデルさん

鶴岡八幡宮 宮司さんの書画とモデルさん

日暮れとともにひとつひとつのぼんぼりに、巫女さんたちの手からろうそくの灯がともされると境内は一層幻想的な雰囲気につつまれていました。

女優 星野知子さんの書

作家 松岡正剛氏の書

書画やメーッセージの多くは、家族の愛や世界平和を祈るものばかりでした。




 2014/08/06 23:49  この記事のURL  / 

コレクションーその光と影ー2
パネルの穴

ショー会場では1980年の中半位まで、客席後方にある演出ブースと、パネルで仕切られた楽屋とが連絡し合う、インカム(交互通信のトランシーバーとヘッドセットが付属された通信器=インターカム)というものはなかった。

客席側にいる演出家はモデルがステージに現れると手振りでモデルに動きを指示する。しかしここで問題なのは、ステージ上のモデルがいつ楽屋に戻るかの指示である。基本的には楽屋から次のモデルが登場すると、若干間をおいてステージ上のモデルは戻って行く。

1982/83 a/w-Givenchy Paris collection (モデルの左上に覗き穴が見える)

それじゃ次のモデルは、いつステージに出すのかというと、パネルに無造作に開けられた小穴から、デザイナーがステージ上のモデルの動きを見ながら順次、ショーの進行係に指示を出している。時折、四角に切り取られた穴の向こうにデザイナーらしき人の眼が客席側からも露骨に見え失笑をかうこともままある。

1983/84 a/w-C.Montana Paris collection (モデルの左横に開いた二つの覗き穴)

私はこの覗き穴が、世界のファッションの最高峰の場において、あまりにも無神経に開
けられているのが疑問でならなかった。せめてもう少し小さく,人目に触れないところに出来ないものかと、、、幸い技術の進歩とともにそれからまもなくしてこうしたことはなくなったが、
今思えば古き良き時代の懐かしい想い出でもある。

パリコレの楽屋風景

パリコレは時間を争うあまり、通常のショーやイベントのように、そのほとんどのショーがリハーサルをやらない。いや厳密にはリハーサルをやる時間がないのである。

それは売れっ子モデルのスケジュールと、ヘアーメイク等の作業時間が主な原因である。ここで誤解されると困るのであえて擁護すると、ヘアーメイクのスタッフの作業が遅いということではない。
売れっ子のモデルは、デザイナーなら誰しもが使いたい。特に自分のショーに出演するモデルが、一つ前のショー出てるときが問題である。

パリコレの楽屋風景-2 (かなりつくりこまれたヘアー)

ショーが終るやいなや楽屋を飛び出したモデルは、ショーの時のままのヘアーメイクで街中を走り、メトロに乗り込んで次ぎの会場へと急ぐ。
それぞれのデザイナーにはシーズン毎のテーマーがあり、衣装はもちろん、ヘアーメイクも毎回異なる。前のショーのヘアーメイクがシンプルなものであればさほど問題はないのだが、ご丁寧に作り込んだものになると、前のショーのヘアーとメイクをおとし、そこから新たにつくり直すため、倍以上の時間を要するということである。

昔も今もコレクションの開始時間が遅れる所以である。


 
 2014/08/05 17:17  この記事のURL  / 

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プロフィール


大石一男 (おおいしかずお)
KAZOU OHISHI


写真家・フォトジャーナリスト

長崎市生まれ。大学卒業後、テレビ番組の制作に8年間携わる。1979年に初めてパリコレクションを撮影。以降、ミラノやロンドン、ニューヨーク、東京、ソウルと世界のコレクションを長年に渡り撮り続ける。 東京ファションウィークには、第1回目からオフィシャルカメラとして参加。

2013年、第31回「毎日ファッション大賞」鯨岡阿美子賞受賞。著書に「カメラマンのパリコレクション」(読売新聞社)、おもな写真集に「Paris collection 1981〜2000」(新潮社)がある。

大石一男 オフィシャルサイト
http://www.kazouohishi.com/


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