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コレクションーその光と影−8
初めてのニューヨーク・コレクション

つい先日、2015年春夏ニューヨーク・ファッション・ウィーク(以下NYFW)=(コレクション)が、各国のコレクションの先陣をきって終わったばかりだが、私が初めてN.Yコレクションへ行った80年代は、最初がミラノで、次がロンドン、そしてパリの後にニューヨークが行われていた。
また今でこそファッション・ウィークという名前が一般的だが、当時はまだコレクションとよんでいた。

エンパイア・ステート・ビル

パリ、ミラノコレクションを経験した私は、NYFWの撮影にも興味がわき、以前からパリコレの会場で親しくしていたアメリカの業界紙記者で、写真も撮っていたスーザン・ロランツに相談した。

カメラ席でいつも隣合わせのスーザンは、笑顔が絶えない明るい性格の女性だが、ただ彼女の話すアメリカなまりの早口英語は、私には理解するのが難しく、いつもゆっくりしゃべってくれと言っていたのを思い出す。
そんな彼女が紹介してくれたのが、幼なじみで親友のニーナ・ハイドだった。

私のNYFWへの実現にはこの二人の支えがなかったら、実現は難しかったと今でも思っている。

スーザン・ロランツ

ニーナはアメリカを代表するワシントン・ポスト紙の優秀な記者で、世界的にも有名なナショナル・ジオグラフィック誌の記者も兼任していた。
もの静かで、いかにもインテリを思わせるタイプのジャーナリストだった。

心強い二人の味方を得た私は、半年後の82年10月、パリコレが終ると、次のNYFWまで1週間しかないため、帰国しないでそのままN.Yへとわたった。

JFKの空港から乗ったタクシーがマンハッタンに近づくと、写真や映画でしか見たことがなかった摩天楼が私の目の前の覆い被さるかのようにせまってきた。
私は子供のように眼を輝かせ、胸が高鳴るのを憶えた。

80年代のマンハッタンの摩天楼 (中央のビルはまだPAN AMビルだった)

ホテルで荷物をおろすと、私はすぐさまスーザンへと連絡をとった。
すると彼女は、ニーナからの伝言で、NYFWが始まるまで時間があるので、私をワシントンの自宅へ招待したいとのことだった。

ニーナ・ハイドと私 (ニーナの自宅で)

翌朝、私はアムトラック鉄道の列車でワシントンへと向かった。
ニーナはわざわざ駅まで私を迎えに来てくれていた。
彼女の家は、ジョージ・タウン大学近くの閑静な住宅街にあった。そして
玄関で出迎えてくれた彼女の夫はやはり学者肌の物静かな人だった。
3日間の滞在中、彼女は職場のワシントン・ポストの本社をはじめ、国会議事堂やスミソニアン博物館等を案内してくれ、ポトマック河畔を一緒に散歩してくれた。


(左)合衆国議会議事堂 (右)ホワイトハウス

そして2日後にNYFWを迎えると、私はニーナより一足先にニューヨークへと戻った。
初日からいきなり大物デザイナーのラルフ・ローレン(Ralph・Lauren)のショーが控えていた。
私は下見をかねて、ショー会場のラルフのオフィスを訪ねた。
ニーナをはじめ、周囲の人からもラルフは入場するのが難しいというのを聞いていたからである。
そしてショーは、会場が小さいため2回に分けて行われ、ニーナが2回目に来ることも別れる際に彼女からきいていた。

当時、NYFWは特定の会場やテントといったものはなく、各ブランドやデザイナーがそれぞれの場所で開催していたが、FITやパーソンズ(PARSONS)といった服飾、デザイン系の学校で開催されることも多かった。変わったところでは元、教会だったところやディスコ、レコード会社のスタジオや、ソーホーなど、ダウンタウンのロフトもよく使われた。

パーソンズ ・デザイン学校(当時)

ショー当日、早めに会場へ行きプレス担当者に、持参した媒体資料を差し出すと眼もくれず、全く取り付く島もなかった。それどころか入口が邪魔だから早く出て行ってくれと追い出される始末だった。
腹立たしさと悔しさでいっぱいだったが、二回目にニーナが来るのを待つしかなかった。

一回目のショーが終わると、先程のプレス担当者が出入口にいる私を見つけ、
「まだこんなところにいたの!」と顔を真っ赤にして怒っている。私は無言でただニーナが現れるのを待っていた。
ほどなくして現れたニーナは、私の顔を見ただけですべてを解ったのか、
「私の後から付いて来なさい」と言う。私は黙って彼女の後に従った。
そしてニーナーが会場に入ろうとすると、プレス担当者は私には見せたことがない
笑顔と甲高い声でニーナを迎え入れた。そして後ろに隠れるようにいた私を見つけると、先ほどの笑顔はまた元の怖い顔に戻り、
「あなたまだここにいるの!何してるの、帰りなさいよ!」
すると前を歩いていたニーナが振り返り、「ノー、ヒー、イズ、ワシントン・ポスト!」と、ごく自然に諭すように彼女にいうと、今度は何事が起きたのかとばかり驚いた彼女は、私に詫びた。

ワシントン・スクエア公園

ショー会場で、特に有名ブランドや人気ブランドに入るのは、どこの国でも厳しく難しいので、決して彼女が悪い訳ではないのは私自身が一番よく知っている。
しかしこのときほど、有力メディアと著名なジャーナリストの力をまざまざと見せつけられたことはない。

念願のショー会場へ入ることができた私が、遠慮がちにスーテージの片隅に陣取っていると、先ほどのプレス担当者が来て、
「ここでいいの?、正面のあそこがもっといいわよ!」と、ニューヨーク・タイムス、W.W.Dと並んで ”ワシントン・ポストの私”は、初めてのNYFWの写真を、これ以上の場所はないというところで撮らせてもらった。

80年代のダウンタウンの街並み

その後3年間、パリコレの後、NYFWの撮影をつづけていたが、東京コレの開催と同時期になったため、やめざるを得なくなった。

その後もパリコレで、ニーナにはよく会っていたが、突然姿を見なくなり、その後、スーザンから彼女の死を知らされた。私はあまりにもショックでかえす言葉もなかった。

生前、ニーナが私に、「あなたは一度、ケニアに行きなさい。」と言ったことがある。亡くなった今、その真意を聞くことはできないが、きっと毎日を忙しく過ごす私に、雄大な大自然のすばらしさを見て少し落ち着きなさいと、そう言いたかったんだろうと勝手に思っている。残念ながらケニア行きは未だに実現してないが、、

スーザンはその後もパリコレへは来ていたが、さすがに疲れるのか、写真を撮るのを辞め、ファッション・ディレクターとして活躍していたが、その後引退した。
 2014/09/14 00:10  この記事のURL  / 
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プロフィール


大石一男 (おおいしかずお)
KAZOU OHISHI


写真家・フォトジャーナリスト

長崎市生まれ。大学卒業後、テレビ番組の制作に8年間携わる。1979年に初めてパリコレクションを撮影。以降、ミラノやロンドン、ニューヨーク、東京、ソウルと世界のコレクションを長年に渡り撮り続ける。 東京ファションウィークには、第1回目からオフィシャルカメラとして参加。

2013年、第31回「毎日ファッション大賞」鯨岡阿美子賞受賞。著書に「カメラマンのパリコレクション」(読売新聞社)、おもな写真集に「Paris collection 1981〜2000」(新潮社)がある。

大石一男 オフィシャルサイト
http://www.kazouohishi.com/


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