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先生とわたし

 私事で恐縮だが、新聞記者になるまえは、大学の研究所で特別研究員をしていた時期がある。そのときの師匠が、文芸批評家・思想家として現在でも活躍中の柄谷行人先生だった。

 研究員といっても、雑用係のような仕事をしていただけであり、学問的にはまったく不肖の弟子だったに違いない。それでも、先生と弟子という関係は特別なものだ。第三者から見れば理解不能だろうけれども、いまでも先生に対する感情は特別なものがある。それは心酔とか、ましてや個人崇拝といったものとも違う。ある時期、何らかの運動(学問とは結局、ある種のムーヴメントだ)にともに参加した者だけが持つ信頼の絶対性とでもいうものだ。
 なぜ突然、こんなことを書いたかと、ついさっき本屋で柄谷先生の新著『世界史の構造』(岩波書店)を見つけたから。近々、刊行されるということは知っていたけれども、実物を手に取ると、やっぱり圧倒された。500ページを超える大著だったからだ。
 先生には代表作が多いが、とくに有名なのは『トランスクリティーク―カントとマルクス―』(批評空間)だろう。国内外に衝撃を与えた書物だった。ところが、トランスクリティーク以降も、先生の知的営みは止まるところを知らなかった。トランスクリティークで提起した「交換様式から社会構成体を見る」という構想の実践として、¥10¥年にわたる思索の結果として『世界史の構造』が出来上がった。
 ちょうど、わたしが研究員として仕えていた頃、その構想の一端を常に語っていた。頓珍漢な受け答えしかできなかったけれども、いくばくかは議論(とは言っても、居酒屋での談義がほとんどだったが)にも参加したことを思い出す。
 先生の本を読むと、そういった記憶とともに、最近は失いつつある学問的熱意を蘇らせてくれる。そういう意味でも、先生は、いまもわたしを指導してくれていると感じるのは、第三者から見ればおかしな振る舞いだろう。しかし、“先生とわたし”という関係の絶対性は、そういったものだ。人に理解してもらいたいとも思わないし、理解されたとしても、それは恐らく誤解に過ぎないだろう。(M.U)

2010年06月30日(水)  10:02  / この記事のURL